稀有な出来事 3





 その日、かつて千の妖怪を死に追いやった青年が、新しい生を歩み始めた――






 慶雲院の正面階段。
 着替え程度の僅かな手荷物のみを携え、片眼鏡の青年は背後にいる人物の方を向き、深く頭を下げた。

「・・・お世話に、なりました・・・」
「別に世話なんざした覚えはねぇがな。
 取り敢えず、住所が決まったら報告に来い」
「はい、必ず。
 ――それでは、失礼します・・・」

 再び頭を下げた後、階段を下りていく。
 かつて罪を犯した猪悟能という名の青年。
 千の妖怪を初め多くの命を屠り、自らも妖怪へと変化した彼は、犯した罪を死ではなく生を以って償う事を言い渡された。
 そして今日、『猪悟能』としての戸籍は完全に抹消され、新しく授けられた名『猪八戒』として、再生の第一歩を踏み出したのだ。
 階段を降りきったところで三度自分に向かって頭を下げる姿を見たのを最後に、踵を返して建物へと戻る。
 ここ1月程、やれ調査だやれ協議だやれ書類作成だと、普段の倍以上の仕事に追われた気がする。
 が、それも今日で一段落し、後は保護観察という名目で月に2度程の家庭訪問を行えばいい。
 大量虐殺犯とはいえ、その原因は愛するものを奪われた事による報復行動であり、無差別の殺戮ではない上、元はどちらかというと争いを好まない性格であると調査書にはある。
 実際留置されていた期間も、その態度や言動は、犯した罪とは程遠い印象を受けるものであったのだから、今後面倒を起こすこともないだろう。
 となると――

 これであの女ともおさらばだ・・・!

 その目が据わっている事に、残念ながら気付く者もツッコむ者もいない。
 『あの女』こと、猪花喃。
 猪悟能の双子の姉であり、情を交わした相手でもあり――そして、既にこの世の者ではない人物。
 妖怪に手篭めにされ身篭った事を苦に自害した、ある意味激情型な女のだが、想う者が生きる屍のような状態になっているのを見かねたらしく、

『あの子がある程度私の事に折り合いをつけて、気持ちの整理が出来た辺りでちゃんと成仏するから』

 などと言ってあの世への旅立ちを先送りにし、彼の臨時監視員としてこの世に留まったのだ。
 しかも解せないことに、その姿や声を認識出来るのが自分だけであったため、彼女の不平不満を一手に引き受ける形になってしまった事が、忙しさに拍車をかけたといえよう。

 何が『浮いた人件費で義眼を』だ、そりゃ寺全体で見れば人件費は浮いたかも知れんが、俺一人の労働量は逆に増えてんだよ!

 その時の状況を思い出したのか、金髪の下のこめかみに青筋が立つ。
 確かに、市井に戻すにあたって、片目が抉られたままというのは堅気扱いが難しくなるため、義眼を入れる事自体に異論はなかったが、

『あの子の瞳の色はこんな色じゃないわ。もっと深みがあって少し青みがかった、とても綺麗な碧なのよ。
 何よこの薄っぺらい緑色は?こんな安っぽい色の義眼、あの子の貌に合うわけないじゃないの!』

 などと言って、義眼の光彩に嵌める素材に何度もケチをつける始末だ。
 無視などしようものなら本気で半永久的に慶雲院に居座りかねないため、仕方なくその要求に従った事は、墓場まで持って行く秘密である。
 そして今日。
 猪悟能改め猪八戒がこの建物を出るまでの間、密かに周囲の気配を窺ったが彼女は何処にも存在しなかった。
 猪悟能が勾留されていた頃も、四六時中自分や猪悟能の傍にいたわけでなく、例えば悟能の就寝中などは、ある種の異次元に存在していたと本人(本霊?)は言っていた。
 が、今回は勝手が違う。
 釈放についても改名についても既に伝えていたので、きっと本懐を遂げて成仏したのだろう。
 物理的に開放されたのは猪悟能かも知れないが、精神的に開放されたのはこちらかも知れない。
 そう思うと、執務室に戻ってから初めて吸った煙草が、この数週間の中で一番美味く感じられた。
 それから数刻程、煙草の味を噛み締めながらルーチンワークに専念していると、

「三蔵様、猪悟能・・・あ、いえ、猪八戒が謁見を求めております。
 沙悟浄と名乗る者も一緒とのことですが、如何致しましょう?」
「・・・通せ」

 意外というよりは、やはり、という気持ちで、伝達役の僧侶に指示する。
 自分が猪悟能を捜索していた際、彼を匿っていたのが、あの赤毛の男だ。
 本来ごく普通の――その素行はお世辞にも良いとは言い難かったが――小市民であるため、猪悟能が逮捕された時点で、彼とも、そして自分とも接点を絶つつもりで『猪悟能は死んだ』と言っておいたのだが。
 人となりは正反対でも、深い部分で共通項もあったらしいあの2人は、何のかんの言って馬が合うのだろう。
 三方良しを狙ったいつぞやの行動について文句を言われることは間違いないため、さて何と言ってやろうと考えながらドアが開かれるのを待つ。

「あっれー、悟浄じゃん」

 先程の僧侶と入れ違いだったのか、2人が来る事を知らなかった悟空が、素っ頓狂な声を上げる。
 視線を上にやると、律儀に悟空に挨拶する八戒と――

「似合わねぇ頭」
「うっせぇ猿」
『ヤッホー、似非最高僧♪』
(何で貴様がここにいる!!?)

 格式高い寺院に於いてとことん場違いなランニング姿の長身の男。
 その肩に、成仏したと思っていた猪花喃の霊がちょこんと座っていた。
 腰を下ろされている当人は、全く気付いていない。
 悟空もやはり見えていないようなので、声を荒げる事は出来ず、心の中で盛大にツッコむ。
 こちらの言いたい事は、心の中で声にすれば相手に伝わるのだ。

『私は、この子がある程度私の事に折り合いをつけて、気持ちの整理が出来た辺りで、と言ったのよ?
 自傷は治まっても、まだ精神的に安定したとは到底言えないじゃない。
 こんなんじゃ私、安心して逝けないわ』
(ンなの屁理屈だろうが!本気で強制送還するぞ!)
『あらヤダ女性に無体な事するっていうの?ホント似非最高僧なんだから』

 今すぐここで魔戒天浄してやろうかと考えた時、赤ゴキブリが予想通り先日の事についての文句を言ってきたため、意識が逸れてしまった。

 くそ、いっそコイツごと浄化させるか?

 とは思っても流石に盗賊でもない一市民を殺ってしまうと色々面倒なので、この場は抑えておくことにした。
 代わりにといっては何だが、半分八つ当たり気味に赤ゴキブリを理屈で押さえつける。
 悟空が八戒に名を聞いたのをきっかけに、馬鹿同士の騒ぎ合いが始まった。
 流石に五月蝿いと感じたのか、赤ゴキブリの肩から猪花喃の霊がふわりと床に降り立つ。

『・・・まだ、凄く無理してる顔なのよ』
(・・・・・・)

 この女を喪った後の顔しか知らない自分にとっては、ここで勾留されていた頃の荒みきった顔付きよりか随分マシだとは思うが、最も幸せな時を共に過ごしたこの女にとっては、これでもまだ不十分らしい。

『人間から妖怪に変化してしまって――憎むべき相手だった妖怪によ?本当なら半狂乱になっているわ。
 今は環境の変化に対応する事に気を取られているけど、いずれその現実と直面する時が来ると思うの。
 その時、また自傷行為が増えるかも――ううん、自殺しかねないわ。
 保護観察の対象が自殺したら、貴方だって困るんじゃなくって?』
(・・・・・・)

 よくもまあ、これだけの屁理屈が出て来るものだ。
 数分前に悟浄に屁理屈を言っていた事は棚に上げ、呆れたため息を吐く。
 傍に立っていた八戒に様子を聞いたところ、思った通りあの赤毛の男と一緒に暮らすという。
 目の前に姉がいることは、やはり判らないらしい。
 ・・・どーにかしてチューニング出来んのか。

『ほんっと、悟能ってば、頭はいいのに、肝心なところでお馬鹿さんなのよね。
 というわけで似非最高僧、私、常駐監視員としてこの子の傍にいるから、もしもの時はお願いね♪
 あの赤毛の男の子も全然霊感ないみたいで、役に立たなさそうだし?』
(・・・・・・)

 毒を喰らわば皿まで。
 そんな諺が脳裏に浮かんだ――






 その日から、仕事の下請けや悟空の家庭教師など、慶雲院統括責任者と元罪人、そしてその姉の霊との奇妙な縁は細々と続く。
 幼い頃より孤立無援の日々を過ごしてきた最高僧の、それは稀有な出来事。



 どっとはらい。



あとがき

え、花喃姉様まだ居座るんですか?(汗)
といいますか段々三蔵様がになってきている点、平にご容赦を(^_^;)。




Back