稀有な出来事 完結編





 長安を発って季節が一つ変わろうとしている。
 昼食のため、張られたキャンプで、悟空が枯れ枝を集め、悟浄が火を熾している横で、慣れた包丁捌きで八戒が野菜を切っている。
 そこから少し離れた大木の影で、最高僧は新聞を広げていた。
 旅を始めてからこの方、何度も繰り返している光景。
 だが――

(・・・言いたい事があるならハッキリ言え)

 声には出さず心の中で、三蔵は『ある人物』に話しかけていた。
 それに呼応するように、三蔵の前にふわり、と突如現れた、若い女性。
 たなびくスカートと風に揺れる三つ編みの髪と同様、その体そのものもぷかりと宙に浮いている。
 女性は、その状態のまま、柔らかいアルトで三蔵の声に応えた。

『・・・嫌な感じがするわ』
(何がだ)
『悟能の後を、良くない気配がつけているみたいなの。あの子の様子もおかしいわ。それに――貴方も』
(・・・フン)
『異空間を抜けて来たもんだから、最近の出来事は知らないんだけど、何かあったんでしょう?
 あの子の顔色、見た?少なくとも2日はまともに寝ていないのよ』
(・・・・・・)

 『悟能』――八戒を、かつてヒトの身であった頃の名で呼ぶこの女性。
 猪悟能と同じ母の腹から同じ日に生まれた、二卵性の双子の姉、猪花喃――の、霊なのだ。
 『自分の事に折り合いをつけて精神的に安定するまで』娑婆に留まり想い人でもある双子の弟を見守る、という約束を盾に、西行の旅が決まった際も半ば強引について来てしまい、今に至る。
 その姿と声を認識出来るのは三蔵だけ――本人は極めて不本意だが――なので、当の八戒ですら、彼女がこの場にいる事を知らない。
 それをいいことにジープの後部座席に陣取ろうとしたが、悟空と悟浄が常にカードゲームに興じたり不毛な争いをしたりとせわしないので結局それは諦め、霊のみが存在出来る異空間に潜っては現世に出て来る、という離れ業で、時々悟能やその周辺の様子を窺っている。
 異空間での時間の経過は現世のそれとは異なるため、花喃にとって左程時間の経過は感じられない。
 だからこそ、想う者の喜ばしくない変化を、如実に感じ取ったのだろう。
 『何かあったの?』ではなく『何かあったんでしょう?』という台詞が、その事を表している。

(・・・清一色、という易者を知ってるか?)
『何よそれ、何で麻雀の役が名前になるの?芸名?』
(・・・占者易者の名前を芸名というのかは知らん。が、当然本名ではないだろう。
 そいつは奴の腹の傷の存在まで言い当てている。それが易占に依るものかは判らんがな。
 そいつに出くわしてからだ。奴の神経衰弱が再発したのは)
『・・・・・・で、貴方はどうするつもりなの?』
(どうもこうも、俺は医者でもカウンセラーでもねぇ。奴自身が自分の過去と折り合いをつけなきゃ、本当に立ち直ったということにはならん。あんたも、それが望みなんだろうが)

 そして一刻も早く八戒が精神的に立ち直り、花喃にとっとと成仏して欲しいというのが、三蔵の望みというか超本音なのだが、それはさておき。

『でも、多分このままじゃ済まないわ。さっき言ったように、良くない気配を感じるの・・・』






 あの女の予言めいた台詞は、現実のものとなった。
 清一色が寄越したという気色の悪い人形は、八戒の精神に揺さぶりを掛けるのみならず、得体の知れない『種』を、傍にいた悟浄に植え付けた。
 『種』は銃で撃ち砕き、即座に八戒に傷を塞がせたことで事なきを得たが、全てあのいけ好かない易者の思うままに踊らされたと思うと、腹立たしいことこの上ない。
 ――そして現在。

『一体何なのよ!?あのふざけた名前の易者だか雀師だか、直接悟能を攻撃するでもなく、こんな回りくどい事して何をしたいわけ!?』
(煩ぇ静かにしろ。つーかそれを俺に聞いてどうする)

 森の中の洞窟。
 碌に睡眠を摂れていない状態で精神的ダメージを受けたのが災いしたのだろう、悟浄を治癒したその場で昏倒した八戒は、一夜明けた今も尚目を覚まさない。
 水や荷物を取りに行った悟空がなかなか戻らないため、今は悟浄も周囲を探索しており、洞窟の中には自分と八戒、そして自分にしか見えないこの女しかいない。
 警告を発したにも拘らずこのような事態になった事が剛腹なのだろう、先程から避難の矛先はずっとこちらへと向けられている。

(きっと奴の目的は、八戒を殺す事ではない、壊す事にあるんだろう。だからこそ、相当陰険な手口で突いてくる。
 腹の傷を言い当てたのも、以前から知っているものとすれば、ひょっとすると奴の正体は・・・)

 そこまで(心の中で)言ったところで、ふと傍らに横たわる気配の質が変わった事に気付いた。
 過去に関係する夢でも見たのだろうか、完全には覚醒しきっていないと思われる眼は、顔の前にかざした己の手の平を、無表情で見つめている。
 その、節が目立たずほっそりとした指を、花喃は両の手で包み込んだ。

『・・・私、この子の綺麗な手がとても好きだったの。ううん、今でも好き。
 でも、この子は自分の手を、そうは思っていないみたい・・・』

 慶雲院に勾留されていた頃、雨の日に何度も何度も手を洗う彼を見たことがある。
 血が、取れないんです。洗っても洗っても、ほら、まだ赤い。
 そう、何処か焦点の合わない眼でこちらを見ながら、手の皮が剥けんばかりに水の中で手を擦る彼を洗面台から無理矢理引き剥がした記憶が蘇る。

(・・・あんたは暫く消えてろ。今回の事は、あんたにも何らかの影響がないとも限らん)
『・・・・・・仕方ないわね。その代わり、頼んだわよ――あの子の事』
(・・・フン)

 八戒の過去に繋がる人物だとか、そんなものはどうでもいい。
 自分達の行く手を阻むなら、この手で排除するまでだ。
 そう決意を新たに、弾丸を込め終わった銃のシリンダーを元に戻した。






 そして三蔵達は、様々な危機を乗り越え、清一色を倒すことに成功する。
 相手の油断を突くことに成功したのは、過去を振り切り前を向いた八戒の精神力と――

「――ホント、あの時はギリギリだったんですよ。貴方の額に血管が浮き始めた時は、我ながら拙いと思ってました。まさか、あれも演技とはねぇ」
「生憎だったな、殺せなくて。
 青筋の2つや3つ、毎日立ててりゃ自由自在だ」
「あぁ、そういえばそうですね」
「・・・憑き物が落ちたような面だな」
「まあ、お陰様で。
 文字通り、僕は清一色に取り憑かれかけてましたから・・・」

 言いながら、手の平を見つめる。
 あまり色味のないそこに黒々と見えるのは、悟空が油性ペンで書いた生命線。

「意外ですね。悟空が生命線を知ってるなんて」
「・・・馬鹿ゴキブリが自慢しているのを聞いた猿が、奴から教わったようだ。
 下らん知識ばかり教えやがる」
「あはははは。
 ――でも、嬉しかったですよ」

 そう言うと、足を折った悟空の世話をするため、三蔵の傍から離れた。
 それを見計らい、

(・・・いるのか)

 虚空に向かって、心の中で問い掛ける。

『・・・無事だったようね。悪運の強い人だこと』
(生憎だが、俺は誰かに殺されてやるほどお人好しじゃないんでな。
 それに、あそこで俺が死ねば、間違いなく奴は壊れただろう・・・あの易者野郎の思惑通りに)
『ま、一応感謝はするわ。
 でも・・・ちょっと残念ね』
(あ゛?)
『貴方が死ななかった事じゃないわよ。
 もう、私があの子の傍にいなくても大丈夫って事』
(・・・・・・)
『あの子はもう過去に――私に囚われることはないわ。
 約束通り、ここで成仏することにするわね』
(・・・寄り道なんざするんじゃねぇぞ)
『やぁね、子供じゃないんだから。
 でも、最後にあの子に触れさせてちょうだい。それくらい、いいでしょ?』
(・・・フン)

 そう言うと、花喃の霊は、ふわりとスカートを翻し、八戒の傍へと飛んで行った。
 そしてその額に、そっとキスをする。
 ――と、

「・・・・・・花喃?」

 今まで――そう、彼女が死んでから今日までずっと、その存在に気付いていなかった八戒が、そう言って顔を上げた。
 そんな八戒に、彼女は花のような笑みを浮かべ――そして空気に溶けるように消えていった。
 今度こそ、彼女は成仏したのだ。
 遠くからその様子を見ていた三蔵は――

(今頃チューニング成功か!)

 そもそも八戒が彼女の存在を認識していれば、自分がここまで苦労させられることもなかったのだ。
 行き場のない怒りに、演技ではない青筋を立てる三蔵。。
 誰にも捕らわれず、あるがままに生きることをモットーとしていた筈の最高僧が、非常識な双子に振り回され続けた、それは稀有な出来事。



 どっとはらい。



あとがき

最初の構想が、2年前の丁度今日。
日付から、三蔵と花喃姉様のやり取りというネタを思いついたのがきっかけでした。
散々三蔵様を振り回しまくること作品年数で3年以上。
やっと成仏してくれましたよ姉様・・・!(感激)
そしてやっぱりポイントは『チューニング』なのです(笑)。




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