――病院という所は、もちろん患者の病気を治療する場所なのだが、その裏では多数の事務職員が膨大な書類や数字と日々格闘している。
も、桃源総合病院の医療事務として、忙しい日々を送っていた。
時計の針が6時を指す頃、事務室のあちらこちらで書類やファイルをしまう音が聞こえ、帰宅の準備に入る者が現れ始める。
総合病院という職場柄、事務職員も当然昼夜交代制なので、一部の社員はまだ勤務時間内だが、それ以外は書類とパソコン画面との格闘を終え、凝った肩や首を解している。
も今日の分の業務を終わらせると、書類を整理しながら、買い物や夕食の事などをぼんやり考えていた。
その時、
「ねぇねぇ、八戒さん、長安総合病院の医療事務の娘とデートするって本当?」
同僚の事務職員が上げた華やいだ声が、耳に飛び込んできた。
話題の中心である猪八戒は、の1つ上の先輩にあたる人物だ。
若手の職員の中ではかなりの有能株とされ、上司からは期待の、部下からは羨望の眼差しを、そしてあらゆる女性職員から熱い視線を集めている。
も例に洩れず彼に淡い想いを抱いていたが、それを表に出すことはなかった。
見た目や性格など、何処からどう見ても地味そのものの自分が、彼と吊り合う筈もないからだ。
それでも彼の名が聞こえてくると、つい耳を傾けてしまう。
「えっ、いつ?何所で?っていうかいつの間にそんな事になってるの?」
声に反応した女性達が、一気に色めき立つ。
達同様帰り支度を始めていた矢先にわらわらと女子職員に囲まれ、八戒は苦笑を浮かべた。
「デートだなんて・・・誤解ですよ。
友人が、就職の事で桃源と長安の特色を知りたいそうで、食事がてら話をすることになったんです。現場の雰囲気をよく知る人の話が聞きたいということで。
だから1対1ではなくて、その友人と、長安の人を紹介した別の友人とを含めて4人でなんです。
別に特別なお付き合いという意味ではないので、悪しからず」
「えー(×複数)」
それじゃ、と荷物をまとめて八戒が退出した後も、女性職員達の噂話は止まらなかった。
も積極的な発言まではしないものの、場の空気を読んで皆の意見を聞いている。
だが、心の中では、どんよりした感覚が払拭されず、ずっと存在を主張していた。
専門学校を卒業後すぐにこの病院へ就職した時から、彼を眼で追い続けていた。
彼が、合コンも含めて異性と食事をしたという話など、これまで聞いたこともない。
だからこそ、今回の件は彼にとって特別なものなのではないかという不安感が、を苛んだ。
その週の土曜日。
遅い時間になって生活必需品を切らしてしまった事に気付いたは、仕方なく普段めったに行くことのない有名ショッピングモールまで足を伸ばした。
近隣のスーパーやドラッグストアは、8時には閉まってしまうからだ。
「まあここが開いている時間帯で良かったけどね・・・コンビニだとかなり割高だし」
生活感溢れる台詞を呟きつつ、建物の出口に向かって歩き出した時、
「・・・・・・あら?」
エントランスホールに人待ち顔で立つ、見知った顔。
八戒だ。
なぜか反射的に柱の陰に隠れてしまう。
そしてそこから彼の様子を窺っていると、
「う、わぁ・・・」
プラチナブロンドの長い髪をなびかせて、1人の女性が、彼の下へ走り寄った。
と左程変わらない年頃なのだろうが、見ようによっては学生といってもおかしくないくらいの清潔感溢れる雰囲気をまとい、清楚という単語がぴったり当て嵌まりそうだ。
八戒に対して軽く頭を下げているところを見ると、お待たせしました、と言っているのだろう。
彼女が、例の長安総合病院勤務の娘なのだろうか。
時間的に考えると、夕方に落ち合い、食事や諸々の話をして、友人達と別れた後、という感じだ。
本来の目的がデートでなかったとしても、知り合って意気投合して、という事はなくもない。
2人が消えた出口を、複雑な思いで見つめるだった。
週が明けて以降、の気分は落ち込む一方だった。
何しろ、八戒が目に見えて機嫌がいいのだ。
やはり、週末に一緒にいた女性と、交際することになったのだろう。
その証拠に、昼休憩の際に見た彼は、今までに見たこともない表情で携帯を見ていた。
彼女からのメール(病院内では携帯の使用は禁止されているので、食堂だけでしか使えない)を見ているのだろうか。
「ね、ね、聞いた?八戒さんの・・・」
「聞いた聞いた。何だかんだ言ってたけど、結局合コンみたいな感じだったんだって?」
「すっごく機嫌良さそうにメール見てるし、てか私八戒さんが携帯持っているの見るの初めてなんだけど?」
「あー、また1人、フリーのイイ男が消えていく・・・」
「仕方ないわよ。それより新しい伝を探して、合コンのセッティングしなきゃ」
そんな同僚達の話も、を憂鬱にさせていた。
気分の下降は、時として人の健康にまで影響を及ぼす。
数日後、酷い頭痛と熱と倦怠感に襲われたは、仕事を休む電話を入れた。
電話を受けたのは八戒だ。
『大丈夫ですか?薬はありますか?』
「常備薬があるのでそれは大丈夫です・・・」
『汗をかいた寝間着は早めに換えて下さいね。あとちゃんと水分を摂って・・・』
まるで医者か母親の台詞だ。
だが、その言葉ではある事に気が付いた。
「あ・・・水分・・・」
病人御用達のスポーツドリンクは生憎無く、冷蔵庫にある飲み物といえば野菜ジュースか麦茶だ。
しかも、それももうすぐ底を突く(麦茶のパックも切れている)。
だが、今のに、買い物に出る気力体力は無い。
『・・・食事も出来れば摂った方が体力が戻りやすいと思いますけど、無理はしないで下さいね』
「解りました・・・」
とは言ってみたが、物を咀嚼する気力すら湧かない辺り、ちょっと拙いかも知れない。
もちろん、ゼリーやプリンといった気の利いたものも無い。
ゼリー等はともかく、スポーツドリンクくらいストックしておくべきだった、と後悔しつつ電話を切ったは、まあいざとなれば水道水で何とかしようと考えながら横になった。
しかし、その考えが甘かったようだ。
数時間後、喉がカラカラに渇いたのを感じ、ベッドから降りて立ち上がった瞬間、強い目眩と頭痛と吐き気に襲われたは、その場に座り込んでしまった。
その時初めて、午前中ずっと額に滲んでいた汗が完全に乾いている事に、遅まきながら気付く。
脱水症状だ。
事務職といえども病院勤務の身、そのような状態で運ばれて来た患者を、何度も見ている。
が、充分な備えも急な時の対処もままならないのが、独り身の哀しいところだ。
どうしよう・・・救急車を呼んだ方がいいかな・・・あ、でも自分の職場に運ばれたら、皆に呆れられるかも・・・
――その時。
ピンポーン
「・・・・・・?」
思考能力の低下した頭では、それがインターホンの音だと気付くのにかなりの時間を要した。
宅配便が来る予定はない筈だ。何かの勧誘だろうか。藁にも縋りたい状況だけど、そういう人達はやはり遠慮したい。というか正直受話器まで歩く気力もない。
まとまらない考えが頭の中を廻る。
――と、
trrrrr trrrrr・・・
枕元に置いていた携帯が鳴り始めた。
ベッドの横に座り込んでいたので、携帯ならすぐに手が届く。
クラクラする頭を押さえながら手に取った携帯の液晶には、『八戒先輩』の文字。
「・・・!?」
一瞬眼を疑ったが、間違いない。
慌てて通話ボタンを押し、応答した。
「もしもし・・・」
『あぁ、さん、大丈夫ですか?今部屋の前に来ているんですが・・・』
ああ、さっきのインターホンは先輩だったのか。
自分が受話器に出ないもんだから、電話を掛けてくれたんだ。
今パジャマ姿だけど、てゆーかスッピンだし、多分髪も乱れているし、とても見せられる姿じゃないけど、背に腹は代えられない、というか命には代えられない。
「待って下さい・・・今・・・開けます、から・・・」
吐き気が込み上げるのをこらえつつ、家具に手を突きながら、玄関へと向かう。
狭いワンルームの短い廊下が、異様に長く感じられる。
ドアに寄り掛かりながら鍵を回したところで、の意識は暗転した――
目を覚ましたに待っていたのは、看護師の説教(だから自分の職場に運ばれるのは嫌だったのだ)と、
「・・・すみません先輩。お昼休みを削ってここまでしていただいて」
「電話で話した時、ちょっと不安になりましてね。本当に行って良かったですよ。ドアを開けたら貴女が倒れて来たんですから」
「うぅ・・・面目ないです・・・(凹)」
穴があったら入りたくなるような、憧れの人の心配そうな視線。
昼休み、胸騒ぎがした八戒は、スポーツドリンクやジェルシートなどを用意して、の住まい(病院の単身寮)へと足を運んだ。
そして開いたドアの隙間から倒れ込んで来たを、慌てて桃源総合病院へと運んだのだ。
用意したジェルシートも早速役に立っている。
医師看護師に状況を話すなど、付き添いとしての役目を果たし、に説教を喰らわせた看護師と入れ違いに処置室へ入って来たのだ。
「取り敢えず、点滴が終わって落ち着くまで、暫くここで休んでいて下さい。僕はこれから仕事を早めに切り上げられるよう調整をして来ますから、その後家まで送ります」
「え・・・いえ、そこまでしてもらうわけにもいかないです」
救急で運ばれた単身者が、タクシーで帰るのはよくある事だ。
今は手持ちが無いので幾許かを調達しないといけないが、それこそ受付にいる同僚に頼み込めば何とかなるだろう(多少のからかいを受ける覚悟は要るが)。
それに――
「それに、私の所為で、彼女さんとメールする時間が潰れてしまったんじゃないですか?
いつもお昼は、メールのやり取りをしてるんでしょう?」
だが、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「・・・彼女って、一体何の事ですか?」
「一体何の事ですかって、ヤですね、皆知ってますよ?
先週お食事した長安総合病院の娘と、メールのやり取りをしているって」
「ちょ、ちょっと待って下さい。さん貴女誤解してますって;」
「誤解って・・・実際、お昼休みに食堂で携帯見るようになったじゃないですか。
それに私、土曜日にショッピングモールで見ましたよ。プラチナブロンドの長い髪の女の人と一緒にいるところ」
「・・・あー・・・あの時・・・」
ほらやっぱり。
まさかあの様子を見られていたとは思っていなかったのだろう、脱力したように呟く八戒を、しかし信じたくない事実を突き付けられたような気持ちで見ていると、
「じゃあこれを見たら、納得していただけますか?」
「?」
八戒がワイシャツのポケットから取り出した携帯電話(きちんと電源Offにしていた。流石だ)を操作し、の目の前に差し出す。
基本的に他人のメールを見る趣味はないので、躊躇いながら覗き込むと、
【つーかよ、あの三蔵サマが、早速自分の車のシートにファ○リーズ掛けてやんの。
余っ程あの時拒否られたのを気にしてるようだぜ?】
【俺てっきり計都ちゃんの職場を選ぶかと思ってたんだけど、お前さんの助言で桃源の方に就職決めたんだって?どゆこと?】
【なんつーか、人間変われば変わるもんだよな。あの女っ気の欠片もなかった三蔵サマにもついに春が来たってんだから、人生何が起こるかマジ判んねぇわ】
「・・・・・・これ・・・」
「要約しますとね、三蔵というのが就職の件で相談を持ちかけた友人で、計都さんというのが、先週貴女が見た女性、そしてこのメールの送り主はもう一人の友人で、計都さんを三蔵に紹介した人物です。そこで三蔵は、計都さんに一目惚れしてしまったようなんです。
まあ僕達もいい大人ですから、余り茶化さずに協力することで合意しているんですが、本人には内緒でこういうやり取りをしていたわけですよ」
そんな背景があったとは。
真相を知り、は真っ赤になって恥じ入るように腕で顔を隠した。
多少の嫉妬もあったのだろうが、憶測であんな事を言うなんて。
「・・・・・・ごめんなさい、変な事を言って・・・」
「解っていただければいいんです。貴女にだけは、誤解されたままでいたくありませんでしたから」
「?」
気が付けば、八戒はの横たわっているベッドの縁に腰掛けていた。
「貴女が意識を失って倒れて来た時、僕がどれだけ肝を冷やしたか、解りますか・・・?」
「・・・すみません・・・」
「まだ、解ってないみたいですね・・・」
「・・・・・・?」
「ずっと、公私混同をしてしまいそうになる自分を、必死で抑えていたんですよ?
でも、僕の知らないところで体調を崩されたり、そんな誤解をされたりするくらいなら・・・」
そのままゆっくりと、の身体の上に乗り上げるように、顔を近付ける。
驚きの余り目を見開いたまま硬直するの頬に、柔らかい感触。
「・・・・・・これで、解っていただけましたか?」
「・・・・・・、・・・・・・、・・・・・・っ」
耳元で囁くように尋ねられ、応えようにも、金魚のように口をパクパクさせるだけで、言葉が出て来ない。
先程とは別の意味で真っ赤になったに、八戒は柔らかく微笑み掛けた。
「僕の気持ちに応えてもらえるなら、ここで僕がまた戻って来るまで待っていて下さい。
もし貴女の気持ちがNoなら、点滴が終わり次第、さっさと帰って下さって構いません」
そう言って、間仕切りカーテンに手を掛け、その場を離れようとする。
は慌てて、思うように出ない声を振り絞った。
「・・・・・・ですか・・・?」
「・・・え?」
「・・・待っていて、いいんですか?・・・私なんかで、いいんですか・・・?」
こんな、何の取柄も無い、地味な女の子で。
だが、それを聞いた八戒は、素晴らしく綺麗な笑顔で、
「『なんか』じゃありません。貴女だから――貴女でないと、駄目なんですよ」
「!っ・・・」
そう言うと、開きかけたカーテンから手を離し、素早くの傍に歩み寄ると、
「じゃあ、いい子で待っていて下さいね♪」
ちゅ
先程とは違い、ほんの少し音を立てて、唇へのキス。
今度こそ茹でダコのように真っ赤になったを尻目に、悪戯っぽい笑みを浮かべ、八戒はカーテンの向こうへと消えた。
不安な日々も、孤独な夜も、もう自分を苛むことはない。
伸ばした手を、掴んだ手を、放すことは決してないから――
|
―了―
|
あとがき
えー・・・目指したのは医師看護師の出てこない病院パラレル(爆)という(医師看護師に伏して謝れ)・・・普段医療ドラマを殆ど見ないので、専門用語(医師看護師は医療用語を略して使うことが多いですから)は解りませんし。
ちなみに八戒と食事をした面々も病院勤務で、それぞれ職種は異なります。てかオリキャラまで登場させて、苦手な方には大変申し訳ありません(謝)。
視点を変えた別バージョン(もちろん三蔵×計都)が書きたくなったので、いつか形にしようと思います。 |
読んだらぽちっと↑
貴女のクリックが創作の励みになります。 |