短夜の逢瀬







 ――寒い。

 意識が蘇る最初の瞬間、感覚が拾い上げたのはその温度。
 高まる温度と湿度に、熱帯夜も生じ始めたこの季節、そのような温度を感じるのはどういうわけか。
 自分の中で湧き上がる疑問に、脳の記憶回路がフル回転を始める。
 確か自分達は、森の入り口に差し掛かった所でキャンプを張り、ジープの中で睡眠を取っていた筈。
 木々に囲まれ昼尚暗い森は、この季節でも過ごしやすい気温で、
 下手な宿よりよく眠れそうだと思ったのが、最後の記憶だった。
 ――なら、なぜ自分は独りで突っ立っている?
 そこまで考えたところで、初めて瞼を持ち上げることに成功した。

「・・・・・・ここ、は――・・・」

 眼前に広がるのは、眠りに就く直前に見た森の風景とは、余りにも違い過ぎる景色。
 木々の緑は跡形も無く、変わりに周囲を埋め尽くすのは紺碧の空間。
 何処までも果てしなく続くその色に囲まれるこの状況は、まるで夜空に投げ出されたような錯覚を受ける。
 では足元は?と地を踏みしめる足を横に動かすと、シャラ、と鈴の音にも似たあえかな音が耳に入った。
 まるで金砂銀砂でできた砂岸の上に立っているようだ。
 だが、その正体を確かめようにも、あたり一面を靄が覆い、一層現実味を薄くしている。
 はたしてこれは夢か、現か、それとも――?

「・・・・・・あれは・・・・・・?」

 紺碧の空間と地を覆う靄の境の一ヶ所。
 境界のあいまいな天と地の、そこだけに存在する『何か』。
 それだけが、非現実的なこの空間の、唯一現実味のある物に見えた。
 周囲を見渡すが、それ以外に物も人もこの場所には存在しない。
 敵の罠とも思えないが、それでも用心しつつ、その『何か』を目指して歩き始めた。



 チリン、シャリ、シャラン、チリ・・・



 一歩進むごとに、足元の砂がかすかな音を立てる。
 天女が奏でる至上の調べは斯くの如きか。
 が、自分には、生憎とその心地良い音色を楽しむ余裕はない。
 何もかもがおぼろげなこの空間の中、唯一つの導となる存在を目指し、足元の音色には耳も貸さず、歩を進めて行く。
 やがて、目指す物の正体が見え始める。

「・・・橋・・・?」

 只の橋ではない。
 黒檀ででもできているのか、周囲の紺碧とは異なる黒光りを放つそれは、紺碧の空間の向こうへと、無限とも思える程長く伸びている。
 橋の輪郭が見えると共に、その紺碧が2つに分かれている事に気付いた。
 サラサラと、足元の砂子とは異なる清かな――河の水音。
 (そら)の紺碧を映して同じ色に染まるその河の上に、黒い橋が架かっているのだと知る。
 この橋は、何処へ続くのだろうか?
 と、そこまで来て、橋のたもとに佇む人影に初めて気付いた。
 橋と同じく黒に近い色の髪は肩に届くほど長いが、その上背の高さが、その人物が男性だと知らせる。
 自分に背を向ける形で――つまり河の方を向いて――立っていたその男は、やおら振り返り、警戒心のない笑みを浮かべて言った。

「――おや。いらっしゃい」

 ――こいつは・・・?

 自分の中の琴線に何かが触れるが、それが何かは解らない。
 そんな自分の心の内を余所に、目の前の男は勝手に喋り始める。

「流石に、この時刻にもなると、この季節でも冷えてきますね。
 明け方にはきっと、この橋に霜が降りますよ」

 この季節に霜が降りるって、山ン中じゃあるまいし。
 そう言おうとしたが、確かに今自分を取り巻く空気はキンと音がするほど冷えきっている。
 戯れ言ではなく、霜でも降りそうな寒さだった。
 と、男は頭を巡らせて橋を振り仰ぐと、

「あぁ、お出ましになりましたよ、貴方の織姫が」

 ・・・・・・・・・は?

 言われて同じように橋を見上げると、確かに紺碧と黒しか存在しなかった空間に、別の色彩が目に飛び込んでくる。
 初めは小さかったその色彩は、徐々にこちらに近付くにつれ、詳細に見えてきた。

「!・・・・・・・・・」

 その、自分の目に映る存在に、思わず息を呑む。
 白一色の薄絹でできた衣をまとう、やや幼さを残す美しい顔立ちの女性。
 その肢体に性的な肉感は全く無いが、代わりにほっそりとした、しなやかさを窺わせる手足は、仏像のような中性的な美しさを醸し出している。
 中でも目を引くのは、月光をまとうかの如く煌く銀糸の髪。
 背丈より長く伸びて衣の裾と溶け合うその様子は、あたかも光のベールを抱いているようにも見える。
 初めに見た時は延々と遠くまで伸びているように見えた橋だが、女性が岸へ着いたのは、姿を現してからものの数分だった。
 シャラン、とアンクレットを着けた白い足が岸の砂を踏んだのを確認すると、スッと男が手を差し出す。
 それに応じ、女性は優美な所作で、己の手を男のそれに委ねた。

「お待ちしておりました」
「少し、遅刻しまして?」
「須らく、女性というものは男を待たせる程価値が上がるものですよ」
「まあお上手」

 微笑みを浮かべる――そしてそれが非常に似つかわしい――者同士、気心が知れた様子で語らうその光景に、訳も無く腹立たしさが込み上げて来る。

「おい・・・・・・」

 唸るような声を出して、はたと気付く。
 自分は、彼とも彼女とも面識は無い。
 知己であるらしい2人が会話を交わす事を咎めるような権利など、自分にある筈もないのに。
 それなのに、無性に苛立たしさが募るのは、何故だろうか?

「あぁ、これはすみませんでした。嫉妬させてしまいましたかね?」

 ――嫉妬、だと?

 これまで生きてきた中で、そういった感情の対象になったことはあっても、自分がそのような感情を抱いたことなどついぞなかったため、男の言葉が一瞬理解出来なかった。

「そんなに睨まなくても、僕は只の介添え人ですから、責任を持って貴方にお渡ししますよ」

 言うと、男は支えていた女性の手を、こちらへと差し出した。
 この手を取りなさい――そう言うかのように。

「さあどうぞ――お待ちかねの、貴方の織姫ですよ」
「俺・・・・・・の・・・」

 俺のもの、なのか?
 その美しい貌も、ほっそりとした肢体も、この世の物とは思えない銀糸の髪も?

「えぇ・・・全ては、貴方様の御心のままに」

 その金糸雀(カナリヤ)のような声も、甘露のような笑みも、全て?
 信じられない思いで、震える手を伸ばす。
 指先に触れた柔らかさは、確かに現実のものだった。
 そのままその指を手の中に握り込むと、軽く引き寄せるだけで、女性は腕の中に収まった。

「では、刻限は夜明けまでなので、それまでごゆるりと」

 自称介添え人の男は、そう言って頭を一つ下げると、その場から立ち去った。
 何処へ行ったのか、などと考える気にもならない。
 自分の意識は、腕の中の存在に全て注がれていた。
 逸る気持ちを抑え、女性の髪に、額に、こめかみに、瞼に、そっと唇を這わせる。
 拒絶の意がない事に更に気持ちは昂ぶり、蕩けそうに柔らかな唇を食みながら、慎重にその身体を砂の上に横たえた。
 僅かな身体の震えは、寒さによるものなのか、それとも――
 その震えすら愛おしく感じ、宥めるように髪を梳きながら、首筋に顔を埋める。
 自分達が身じろぐ度、身体の下でチリン、シャラン、と砂子が奏でる音が、祝福の調べとなって耳に届いた――








「・・・――う、・・・・・・蔵、三蔵!!」
「・・・・・・・・・あ゛?」
「『あ゛?』じゃありませんよ。もうとっくに日は昇ってるんですよ?
 悟浄すら起きたというのに、貴方ピクリとも動かないんですから、こっちの心臓が止まるかと思いましたよ」
「・・・・・・八、戒?」
「まだ、寝惚けてるようですね?
悟空が水を汲んで来てますから、早く顔を洗って下さい」
「・・・・・・・・・」

 何故かいつもの寝起きより数倍気怠さの残る体を、気力で動かす。
 夢を見ていたようだが、記憶には全く残っていない。
 ただ、悪い夢ではなかったようだ。むしろ良い夢といってもいいくらい気分は良い。
 一つ大きく伸びをすると、野宿の寝床にしていたジープから地面に降りる。
 砂土が靴底を受け止めるザリ、という音と共に、



シャラン



「・・・・・・?」

 全ては、夏の夜の幻――








―了―
あとがき

まー何といいますか、
やっちまった(滝汗)。
といっても、『ヤった(爆)』のは桃源郷パラレルの方もそうなんですが。
正直、ここまでイロイロ描写することになるとは自分でも思ってませんでした(乾笑)。
とはいえ、書ききれなかったこともたくさんありまして、特に『あの場所』でのその後の光景とか。
文中でやたらと気温の低さを描写したのは、天の川の橋に降りる霜を詠った百人一首の一つを意識したからです。
ところでこの話の真相、
1.夢オチ
2.意識だけ天界にトリップ
3.牽牛に三蔵の意識が憑依
4.金蝉の意識と同化
のどれでしょう?いえ、どうとでも取れるようにしているのである意味どれでも正解ですが(苦笑)。



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