バレンタインにチョコ、は日本のチョコメーカーの陰謀なのですよ(笑)







 最初のバレンタインは幼稚園の時。
 型抜きチョコに挑戦した。
 でも湯煎の温度に失敗し、脂分が浮いてしまった。
 翌年はココアドーナツ。これならチョコの湯煎は必要ない。
 でも粉の量を間違えたのか、生地は相当ベタベタし、仕方ないので手で丸めて揚げたら破裂してしまった。
 その翌年は、型抜きクッキー。今度は粉の量もきっちり量った。
 でも生地を捏ね過ぎて、やたら歯応えのあるものになってしまった。
 その翌年も、次の年も、
 挑戦と失敗を繰り返しながら、私はお菓子を作り続けた――








ー、プレートのメッセージお願ーい!」
「はーい!」
「ミルフィーユはどうなってる?もうラスト1個なんだけど!」
「苺にナパージュ(艶出し)掛ければ終わりでーす!」

 器具や機械の音が絶え間なく聞こえる厨房を、それに負けないように大きな声で指示や確認の声が飛び交う。
  は、ここ都内の一等地に立つ有名パティスリーのパティシエールである。
 専門学校を卒業後、小規模の支店から経験を積み重ねて、去年から今いる大型店舗に引き抜かれたばかりだ。
 周囲はそれを出世と言うかも知れないが、当人にとっては、扱う菓子の種類の多さ、一度に消費する材料の多さに閉口しつつ、感覚をシフトさせていくのに精一杯で、
 なので、周囲の先輩達よりは、テンポの遅さが目立ってしまうこともしばしばだ。
 今も、最後の仕上げを待つ状態のミルフィーユが、台一面を埋め尽くしている。
 その一方で、別の臨時的なオーダーも入るのだから、体が幾つあっても足りない。
 ――と、
 横から伸びた大きな手が、ナパージュの入ったカップを持ったの手に触れる。
 その僅かな瞬間、自分の身体に力がこもってしまうのには、気付かない振りをする。

、残りのナパージュは僕がしますから、メッセージプレートお願いします」
「あー・・・分かった、じゃない、分かりました」

 序列の厳しいパティシエの世界で、それにも拘らずタメ口が出てしまった事に、慌てて敬語で言い直す。
 相手も気付いたのだろう、『気にしないで』というように目を笑みの形に細める。
 その表情に、頬が赤らむのを、慌てて顔の向きを変えて誤魔化し、言われたプレートのメッセージ入れのため、作業台の間を移動した。

 はぁ。

 忙しさのためではない溜め息が、思わず洩れる。
 彼――猪 八戒とは、実は実家が近所同士の、幼馴染みだ。
 正直、他に取り柄もなく、唯一得意と言える菓子作りを仕事に選んだと違い、何をしても器用にこなす八戒は、専門学校を出てすぐに海外留学を経験し、今ではこの店舗のスー・シェフ(副製菓長)の地位を築いている。
 ホテルのパティスリー部門から引き抜きの話が来ているという噂もあるくらいだから、とは天地の差だ。

ー、それ終わったらモンブランのムラング・ダマンド(モンブランの土台に用いる、泡立てた卵白とアーモンドプードルを混ぜて乾燥焼きしたもの)を!」
「はーい!」

 幾ら前の店舗で殆どの作業を任されていたとしても、今の店舗での序列は、下から数える方が早い。
 先輩パティシエがケーキのデコレーションを行う向かいの作業台で、はひたすら地味な生地絞りを続けていくのだった。








 夜道を歩く、その足取りは重い。
 華やかに見える製菓業界だが、実際は熱や重さとの戦いである。従って、特に女性にとっては決して楽な仕事ではない。
 実際、が今の店舗に引き抜かれたのは、別のパティシエールが腰と手首を痛めて仕事を続けられなくなったからだ。
 規模の小さい店舗にいた時は体への負担も少なかったが、今の店舗に異動し、それまでの3倍近い材料と格闘するようになると、一日の終わりにはヘトヘトになる。
 だからだろう、ほんの少し気が緩んでいたかも知れない。


「きゃあぁっ!?」

 近付いてきた足音に気付かず、急に呼び掛けられて思わず悲鳴に近い声を上げてしまった。

「ちょ、ちょっと、僕ですよ;」
「あ」

 声の主は、職場の先輩、兼、幼馴染み。
 それを認識すると同時に周囲の視線に気付き、慌てて「何でもありません」と主張する。
 流石に同僚を犯罪者に仕立てては拙い。

「えーと、お疲れ様です・・・」
「仕事時間以外は敬語は使わないで欲しいんですけど」
「ですます調がデフォルトの人に言われたくないですよ。
 私って頭の切り替えが上手くいかないから、そうすると仕事中にタメ口がでちゃうんです。今日みたいに」
「僕は気にしないんですけどね」
「八戒が・・・八戒さんが気にしなくても、世間的にはそうはいきません。同い年だろうと幼馴染みだろうと、階級が違えばそれに応じた礼儀をわきまえる必要があるんです」

 切り捨てるようなの言葉に、八戒の表情に影が差す。
 が、一歩後ろを歩いているには、それには気付かなかった。

「あ、見て下さい・・・」

 ふと、ショーウィンドウの一つに眼を留めた八戒が、それを指差す。
 赤・ピンク・金、そして濃い茶色。
 この季節になれば、至る所で目にするバレンタインデーのディスプレイ。
 もちろん、本職の達も無関係ではいられないイベントだ。実際、の職場でも1月の松が明けたと同時に同様の飾り付けを行っている。

「こういうのって、どうしても作る側の目線で見てしまいますが、やっぱりもらう側というのも良いものですよね」
「厨房で嫌というほどチョコを扱っても、ですか?」
「それは僕が食べるわけじゃないですから」
「M○ry’sの陰謀から始まったものなのに」
「・・・思うんですけど、貴女パティシエールの割には随分と現実的ですよね」
「・・・・・・」

 違う。
 元から現実的なのではなく、現実思考にならざるを得なかっただけだ。
 菓子作りの腕は、自分でない誰かを幸せにする為に磨く、その方が自己満足に浸れるし、自分の心も傷付かない。
 けれど、そんな気持ちは欠片も見せずに、は言葉を探す。

「・・・もちろん、自分が手掛けたケーキを褒めてもらえて買ってもらえるのは嬉しいし、それを食べた人の心が満たされるのは良いことだと思います。ただ、イベントに釣られて盛り上がっている光景が滑稽なだけで。
 ケーキ一つで相手を振り向かせられるのは中高生までですよ」
・・・」

 冷めた眼でディスプレイ――というより、その向こうにある別の何か――を見つめるの横顔に、笑顔はなかった。
 ――と、

「――あれ、八戒と・・・?」
「「悟浄?」」

 良く知った声に振り返ると、ショーウィンドウの照明に照らされる赤毛が見事な長身の男が、よう、と手を挙げながら近付いて来た。
 彼――沙 悟浄も、八戒同様の幼馴染みだ。
 流石に高校卒業以降は交流も減ったが、八戒とは男同士ということもあり、時折一緒に飲むこともあるらしい。

「わー、久し振り。相変わらず背ぇ高ーい♪」
「おうよ。このルックスのお陰で指名ナンバー1でさ、手当も上々よ」
「えーっと、仕事って・・・ホスト?」
「美容師だよ;」

 一しきり談笑するが、ふと真顔になると、

「そういや、最近八戒のいる店に移ったんだよな?
 じゃあ八戒の引き抜きの話――」
「悟浄!!」

 珍しく慌てたような声が遮るが、時既に遅し。

「引き抜き・・・?八戒が・・・?」
「え、あ、おい八戒、ひょっとしてまだ・・・?」
「・・・言うタイミングを窺っていたんですが・・・必要なくなりましたね・・・」

 表情を曇らせる八戒に、の脳裏を職場で耳にした噂がよぎった。

「そう言えば、ホテルのパティスリー部門から声が掛かっているって・・・」
「アイビーホテル トウキョウ・・・三蔵のお父様が代表を務めていらして、去年三蔵が社長に就任したホテルグループの1つなんですけどね、そこで腕を振るってみないかというお誘いがあったんです。
 最初は縁故採用と言われそうで断ったんですけど、シェフ(製菓長)からも直々に声を掛けて下さったのと、将来の事も考えると、今がチャンスかなと思いまして・・・」

 もう一人の旧友(というか、八戒と悟浄が無理矢理仲間に入れていたようなものだが)の名を挙げ、八戒は口篭るように説明する。

「そう・・・ですか。おめでとうございます」
?」

 職場での上下関係を知らない悟浄が、の他人行儀な物言いを訝しがる。

「大丈夫です。八戒さんと店長が公表するまで、私は何も言いませんから。
 それじゃ、失礼します」
「あ・・・」
「ちょ、おい?」

 2人の声を無視し、何処か強張った笑顔のまま、は踵を返した。
 あっという間に人ごみに紛れたを呆然と見送る八戒に、悟浄が長い髪をかき上げつつ、呆れたように声を掛ける。

「もしかして、お宅等まだ付き合ってなかったワケ?」
「・・・えぇまあ」
「もしかしなくても俺、余計な事言っちゃったワケ?」
「えぇそうですね」
「そこはボカさねぇのかよ・・・って、ンな事言ってる場合じゃねぇか。
 おら、早く追っかけろ。んで、ちゃんと自分の気持ち言ってやれよ」
「・・・駄目ですよ」
「んあ?」
は、今でも悟浄、貴方の事を想っているんですから」
「・・・・・・はあ??」

 がくんと、悟浄の顎が下がる。

「えーとですねぇ八戒さん?何処をどう解釈したら、そのような結論が出て来るんでゴザイマスカね?」
「だって、小さい頃から・・・」








 幼馴染みの悟浄・八戒、そして八戒の双子の姉の花喃は、毎年2月になると、の家で、彼女の手作り菓子をふるまわれた。
 しかし、テクニックを理解しきれない子供故に、出される物は毎回出来栄えとしては今一つなものばかりで、

「今年は型抜きクッキーを作ったんだけどね・・・ちょっと硬くて・・・」

 その言葉通り、歯を立てると随分と硬質な音を立てて砕ける。
 瓦せんべいが厚くなったようなそれは、子供の顎では咀嚼するのに苦労する一品だった。
 まあこの手の失敗はこれまでにもあったので、花喃と悟浄はそつのない言葉を掛ける。

「牛乳に浸けてから食べると食べやすくて美味しいわよ」
「おぅ、俺はこのままでもイケるぜ?」
「本当?」

 幼馴染み2人のフォローに、ぱっと顔を輝かせる
 しかし、

「うちにある本によれば、クッキーが硬くなるのは、生地をまとめる段階で捏ねてしまい、グルテンが増えてしまうからだそうです。粉類を入れた後は、ヘラでまとめて、若干粉っぽさが残っている段階で次の段階へ進むといいそうですよ」
「!・・・・・・」
「おい八戒・・・」

 容赦のない言葉が、に浴びせられる。
 の表情が硬くなり、機嫌を悪くするのが傍目にも良く判った。

「いいわよ、八戒は食べなくて。花喃と悟浄が食べてくれるもんね!」

 ぷいっとそっぽを向くに、

「食べないなんて言ってませんよ僕は」

 意地になったように硬いクッキーを摘む八戒。
 気まずい空気に、顔を見合わせる悟浄と花喃。
 それは、受験の年を除き、高2のバレンタインまで続く光景だった――









幼少時、絵本代わりに母親の製菓百科本を読みまくっていた香月(笑)。
幼稚園の頃は大きくなったらケーキ屋さんになりたい、と言っていたものです。
でも本文中にあるように、実際は結構肉体労働的なお仕事なんですよね。
・・・と言いつつ現在の職種も作業自体は左程変わらんよーな(^_^;)。







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