誘いの驟雨







 ザアアアアアァァ――――・・・ッ



 公務の帰り道で突然降りだした雨は瞬く間に勢いを増し、三蔵の法衣はあっという間に上から下までびしょ濡れになってしまった。

「チッ・・・」

 出掛け際は晴れていたため、傘は所持していない。
 走りながら雨宿りの出来る場所を探していると、とある屋敷の門が目に入った。
 門といってもかなりの幅のある物で、横に通用門らしき物まで付いている。
 更に、その両端に続く塀は端が見えない程で、恐らくはこの一区画全てがこの屋敷の敷地なのだろうと判る。
 それらを見るだけでも、かなり格調高い家の屋敷だと窺えた。
 重厚な瓦屋根のふかれた門に駆け込むと前髪から額に流れる雫を手で拭う。
 日没と重なって見る間に暗くなっていく空を見上げながら舌打ちすると、袂からマルボロを取り出し、火を点けた。

 ・・・止む様子がねぇな・・・

 門灯以外の灯りの無いこの場所では既に辺りは闇が支配し始め、激しく降り続ける雨とあいまって、視界は完全に閉ざされている。

 止むか夜が明けるまでここで足止めか・・・

 そんな事を考えながら煙を吐き出した時。

「・・・何方様でしょう?」

 ギイィ・・・ときしんだ音を立てて通用門が開き、中から屋敷の住人が顔を出した。
 この場所に辿り着いてから舌打ち以外発していない事を考えると、煙草の煙を見るか嗅ぐかして自分の存在を認めたのだろうか。
 そう思い至り、門前での喫煙を咎められるかと、手の中の吸い殻を携帯灰皿へ捻じ込む。

「すまないが雨宿りをさせてもらっている・・・」

 形式的な台詞を吐きながらその人物を見た瞬間、三蔵は固まった。
 二十歳ぐらいだろうか、容姿から窺える年齢とは裏腹にまだ幼さの残るみずみずしい瞳は、晴れた夜空を髣髴させる深い(あお)
 艶やかで長い髪は、人のものとは思えない銀糸。
 そして何より、天女もかくやと思われる程の美貌。
 まるで、純銀の糸と極上の鋼玉で飾った白磁の人形のようにも見えた。

「まぁ・・・それは災難ですこと。それでは屋敷の方へご案内致しますわ。日も暮れて参りましたことですし、お部屋とお食事をご用意致しましょう・・・」

 その美貌と玲瓏な声音が心配そうに曇るのを見ると、罪悪感が生じるのはなぜだろうか?
 しかし、我に帰ってその申し出を遮る。

「いや、しかし・・・」
「ご心配には及びませんわ。部屋は幾つもございますので・・・」

 そう言われて柔らかく微笑まれると、三蔵には断る術が無かった。

「・・・ならそうさせてもらおう・・・」

 少女に誘われて門をくぐると、少女は地面に置いていた籠を手に歩き出した。
 籠の中には銀木犀の小枝。
 どうやら、庭の花を切っていた際に煙草の臭いで自分の存在を知ったらしい。
 それにしても広いな――
 広大な敷地を有する屋敷は庭もまた広く、玄関口までの距離も半端ではない。
 途中の道のりは大木の葉が雨を遮っているが、それらを運良く通過した雫が、庭を横切る形で敷かれた石畳を濡らしている。

「お足元が悪くなっておりますわ。お気を付け下さ――」

 そう少女が口を開いた瞬間、

「きゃっ!?」

 濡れた葉を踏み、足を滑らせたのは注意を喚起した当の本人。
 背面から勢いよく地面に叩きつけられると覚悟したが、意に反して傾きかけた体は途中で止まった。
 代わりに感じる、がっしりとした腕の感触――

「あ・・・」
「人の事を言う前に自分が気を付けろ。石畳に張り付いた濡れ落ち葉を踏めば、足が滑るのは当たり前――・・・」

 少女の背を支え、立たせながらそう言いかけ、三蔵は気付いた。
 少女の視線が、定まっていない事に――

「まさか・・・」

 それに対し、返ってくるのは哀しげな微笑み。

「・・・この家に生まれたが故の、宿業なんですの――」
「・・・・・・」

 名家と呼ばれる家系が、その血筋を重んじる余り血族結婚を行う事は、三蔵も耳にしたことがある。
 しかし、濃くなり過ぎた血は少女に残酷な運命を与えた。
 この地に於いては人に有らざる銀の髪と、光を映さない瞳――
 他人に対する同情の念などという感傷的なものは一度も抱いたことのない三蔵だが、この時初めて目の前の少女を哀れと思った。
 そして、それ以外の感情も――

「・・・この石畳を辿って行けばいいんだな?」
「?・・・ええ、そうですけど・・・」
「じっとしてろ」
「きゃっ!?」

 必要最低限だけ口にすると、いきなり三蔵は少女を腕に抱きかかえた。

「あ、あの・・・」
「多少服が濡れるのは我慢しろ。2度3度目の前で足を滑らされるよりはマシだ」

 法衣が濡れている事を完全に忘れていたため、抱き上げてから言い訳のように呟く。

「・・・はい・・・」

 小さく応えながら何かを紛らわすかのように籠をギュッと抱きしめると、それきり少女はうつむいてしまった。
 程なくして――それでも優に3分はかかったが――玄関口に辿り着くと、三蔵は上がりかまちに少女を立たせた。

「ありがとうございます・・・そういえば、お名前を伺っておりませんでしたわ」
「・・・玄奘三蔵」
「!――まぁ、法師様・・・見えないとはいえ、ご無礼を・・・」

 名家故の知識なのだろうか、最高僧の称号に少女は優雅に頭を垂れる。

「んなモン只の飾りだ。頭なんざ下げる必要はない――で、お前は?」
(ろう) 計都(けいと)と申します」
「計都・・・」

 聞いたばかりの名を、口の中で転がす。

 朧家とはまた、とんでもねぇとこに来ちまったな・・・

 長安はおろか桃源郷内でも指折りの名家の名に、流石の三蔵も驚きの色を隠せない。

「では法師様、どうぞ中へ・・・」

 そう言って重厚な扉を開けた計都に促され、三蔵は煌々と明かりの点いた屋敷内へと足を踏み入れた。

「まあ計都様!お探し申し上げておりましたのですよ?」

 玄関の物音に駆けつけた壮年の女性が、心配そうに声を上げる。

「ごめんなさいね、良鈴(ラウリン)。銀木犀を切っていたの」
「あの・・・そちらのお方は――?」

 見慣れぬ来訪者の存在に、不安を隠せない様子で尋ねる。

「すぐにお湯とお部屋とお食事の用意をお願い。この雨で難儀されておりますの。玄奘三蔵法師様ですわ」
「!・・・かしこまりました。早速・・・」
「あ、良鈴、これをお部屋に・・・」

 そう言って、切ったばかりの銀木犀が入った籠を良鈴と呼ばれた女性――雰囲気からして女中頭か計都の世話係――に手渡した。
 籠を受け取り、良鈴は三蔵に恭しく頭を下げた。

「では法師様、ご案内致します・・・」








 通された客室は、高価だが品の良い調度品が揃えられた素晴らしい部屋であった。

「こちらのお部屋をお使い下さいまし。そちらのドアの向こうが浴室となっております。ただいま湯を張りますのでしばしお待ちを・・・」
「あぁ、すまない」
「お召し物はこちらの中でございます。どれなりとお好きなものをお選び下さい。1時間程でお食事の用意が出来ますので、ご案内致します・・・」
「判った――ところで、この屋敷の主は――?」

 一夜の宿を借りるのだ、取り敢えずは家の主人に顔を合わせるのが最低限の礼儀だろう。
 幾ら性格破綻の鬼畜生臭坊主とはいえ、その辺りは心得ている三蔵である。
 だが、良鈴の口から出たのは意外な返答だった。

「計都様でございます」
「あ?」

 らしくもなく声を上げてしまった三蔵。
 あの二十歳そこそこの少女が、この家の当主――?

「詳しくは申せませんが、今や朧の名を持つ者は計都様唯お一人。計都様が婿君を取られることが、この家を存続させる唯一の道――」

 そこまで言うと上品に口元を押さえ、少しお喋りが過ぎまして、と言い残して部屋を後にした。
 パタン、とドアが閉まると同時に動いた空気が、品の良い一輪挿しに飾られた銀木犀の香りを運ぶ。
 その香りに、三蔵の脳裏に計都の美しい相貌が浮かび上がった。
 清楚で儚い――この花と同じ雰囲気を持つ少女。
 その小さな肩に、名家の宿命が重くのしかかっているのだ。

「・・・・・・」

 そっと、自分の肩に掛けられた経文に手をやる。
 亡き師の唯一の形見。
 自身に課した目的は決して軽いものではないとは思うが、少女のそれとは比べ物にならないだろう。

『この家に生まれたが故の、宿業なんですの――』

 ――泣きながら、笑ってんじゃねぇよ・・・








 湯を浴び、食事を済ませた三蔵は、ベッドに腰掛けながらも横になろうとはしなかった。
 客間は相当な広さで、更に窓には重厚なカーテンが引かれているのだが、それでも雨の音が耳にまとわりつく。
 余程激しい雨なのだろう。
 懐からタバコを取り出したが、灰皿が無い事に気が付き、舌打ちながらそれを戻す。
 その時――



 コンコン



「?・・・誰だ・・・」
「計都です。お飲み物をお持ち致しました」
「・・・入れ」

 失礼致します、と言いながら入って来た計都の手には、酒のビンとグラスとなぜか陶器の皿の乗った盆。
 目が見えない割には器用な少女である。

「申し訳ありません、この家には灰皿が無いものですから・・・」

 本来は花器なんですが、と陶器の皿を差し出した。

「・・・・・・」

 黙ってそれを受け取る。
 仮にも僧侶である自分がタバコを吸い、酒を飲んでも驚かない辺り、常人とは少し異なる感覚の持ち主らしい。
 この屋敷に入って最初のタバコに火を点けて煙を吐くしばらくの間、計都は無言で傍に立っていたが、長くなった灰を灰皿に落とした時、ゆっくりと口を開いた。

「何か――悲しい事がおありなんでしょうか?」
「!・・・・・・」

 予想もしなかった言葉に驚いて見上げる。

「目が見えないと、他の感覚が鋭くなりますの・・・先程から法師様の周りを重く悲しい空気が取り巻いているのが判りますから・・・」
「・・・そう、か・・・」
「雨が・・・思い出させるのですね・・・」

 それには応えず、グラスに注がれた酒を一口飲む。
 計都は傍にあった椅子を手探りで引き寄せ、腰掛けて長い睫毛を伏せながら呟いた。

「・・・大切なものって、何なんでしょう?」
「?・・・」

 質問の意味が解らず、三蔵は計都を見つめる。
 一瞬、三蔵の『大切なもの』について聞いてきたのかと思ったが、少し様子が違うようである。

「家族、友人、恋人・・・私には『大切なもの』と思えるものなんてありませんわ・・・」
「・・・両親はどうした」

 先程の良鈴の話からすれば、2人共既に――

「・・・父は――元々この家の当主だったんですが――その地位を狙う親族によって身に覚えのない罪をきせられ・・・獄中で病死しました・・・
 母はその後・・・・・・病の床に倒れて・・・」
「・・・悪い」
「構いませんわ。貴方様になら話してもいい――なぜかそう思えますの」

 そう言いながら、例の柔らかい微笑みを浮かべる。

「ですが――」

 光を宿さぬ瞳に、更に深い影が生じる。

「確かに両親は私を慈み、あらゆる知識を与えてくれました・・・けれどそれらは全てこの家を守るための知識。私はこの家の呪縛から逃れることが出来ない――」

 屋敷や土地だけではない、国宝にも指定されている幾つもの家宝、己の家名や他の名家との繋がり――それらを手放す事は、国が許さないのだ。
 さながら、幾重にも巻きついた重く冷たい鎖。
 己が両親ですら、この少女にとってはその身を縛りつける鎖の1つなのだ。

「――お聞き苦しい話をしてしまいまして・・・」
「・・・いや・・・」

 計都の話に聞き入っていたためか、雨の音などすっかり耳から離れていた。
 こんなことは、初めてかも知れない――








 結局夜が明けても雨は止まず、三蔵は計都から傘を借りて帰路についた。

 返しに行かねぇとな・・・

 寺院の執務室でそう独り言ちたが、湧き上がる感情は不快なものではなかった。
 恰好の言い訳ができたとでもいうべきか。
 紫煙を吐きながら、思い描くのは銀と(あお)で彩られた美貌の持ち主。
 広いのに窮屈で息苦しいあの屋敷で、あの少女は一生を終えなければならないのだろうか?
 彼女と幾人かの使用人しかいない、無駄に広い屋敷を思い出す。

「・・・・・・?」

 ふと、昨夜の計都の話を思い出して疑問を抱く。
 計都の父親は親族によって冤罪をかぶせられ、獄死している。
 なら、その親族はどうなった?
 あのような名家は、近縁の親族は全て同じ屋根の下に住まうことが多い。
 どう少なく見積もっても5、6人はいる筈だし、その伴侶・子供も入れるともっと増えるだろう。
 それが現在では全て死に絶えているという。
 良鈴の言葉からしても、他の場所に在住していることは考えられない。
 両親を亡くしてから朧家の当主になるまで、計都の周りで何が起こったのか。

 ――調べてみる必要があるな・・・

 朧家のような名家ともなれば、その葬儀にはまず間違いなくこの寺院の僧侶、それもかなりの高位の者が出向いている筈。
 だとすれば、その記録は必ずこの寺院に残っている。
 『高位の僧侶』の中には『三蔵法師』である自分も取り敢えず含まれるのだが、あの家に呼ばれた記憶は無いので除外される。
 薄暗い書庫で帳面のページを繰っていくと、果たして目的の文面が見つかった。

「これは・・・」

 その内容に絶句する三蔵。



 11人。



 朧家の人間総勢11人が一度に命を落としているのだ――8年前に。
 記録されている戒名から判断して、女性や子供も含まれている。
 どう考えても尋常ではない。

 ――俺は、何を考えている――?

 由緒ある名家の中には、長い歴史の中で醜い骨肉の争いを繰り返したものも少なくない。
 そして、それらの事実は闇の中に葬り去られるのが常である。
 朧家に於いてもそれは同じだろう。
 幾ら死因を調べたところで食中毒かそこらの結果が出るのが関の山だ。
 しかし、この大量死の後当主の座に就いたのは、他ならぬ計都である。
 まさか、あの盲目の少女が――?
 三蔵の背中を、冷たい汗が流れた――







シリアスですが、最終的にはハッピーエンドとなる予定。
桃源郷に於ける朧家の存在は、日本に於ける冷泉家や千家のそれと同じようなものとお考え下さい。
仏教関連の古美術品を多く所蔵・管理し、その中には国宝指定を受けている物もあります。
桃源郷に貴族階級というものがあるのかは定かではありませんが、慶雲院への影響はそれなりにあるのでしょう。







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