――8年前――
当時朧家の当主であった保名が投獄された後、妻の葛葉と娘の計都に対する風当たりは並大抵ではなかった。
それでも葛葉は、娘の為と必至に耐えた。
保名が獄中で病死したという知らせを受けた時も、一粒の涙も流さずきゅっと唇を噛み締めただけであった。
目が見えない分人の感情に非常に聡い幼子に、これ以上の負担を掛けないために――
そんな折、一人の男が葛葉に近付いた。
その男こそ、保名が投獄された後朧家の当主の座に就いた人物であり――保名を失脚させた張本人でもあった。
男は葛葉に、現当主である自分と一緒になれば計都に辛い思いをさせることもない、と言葉巧みに言い寄った。
葛葉はこれを頑なに拒んだ。
『あの子の父親は亡きあの人だけ――貴方に、あの子の父親となる権利なんてありませんわ』
ましてや、自分と夫婦になるなんて。
それを聞いた男は、強引に葛葉を自分のものとした。
葛葉の中で渦巻く嘆きと怒りと嫌悪と――それでも泣くことの出来なかった彼女の心は、それらの感情に押しつぶされ、崩壊したのだろう。
翌朝、葛葉と計都を除く朧一族全員が、朝食の席で一斉に吐血し、命を落とした。
葛葉が料理に毒を混入したのだ。
一族の死体を前にして笑う葛葉に、計都と良鈴は彼女が狂った事を知った――
「・・・私の料理に毒が入っていなかったのが、母の僅かに残された正気が為した事かどうかは私にも判りません。もしかしたら私が運良く毒の入った料理に手を付けなかっただけかも知れませんし・・・
ともあれ、残された私が為さねばならない事は山とありました。正気を失った母を当主とするわけにはいかず、かといって母の存在を残したまま私が当主になることも出来ない、ましてやあのような母の哀れな姿を表に出すなど出来る筈もなく――そこで母を親族より先に病死したこととし、その後伯父達の死因も食中毒によるものとして葬儀を執り行ったのです・・・」
それが、三蔵の調べた資料の内容である。
「それに荷担したのが、さっきの医者か――」
主治医の協力がなければ、そのような裏工作は出来ない。
半ば勘で言った三蔵の言葉に、計都は小さく頷く。
「・・・良鈴や他家の皆様方からお力添えいただいたおかげで、何とか当主としての仕事はこなすことが出来ました。ですが母は――母が正気に戻ることは二度となく――それ以来2つの時の間を彷徨うようになったのです・・・」
「2つの時?」
「はい。普段母の心は20年前――まだ私の目が見えない事を知らない、母にとって最も幸せであった時――に遡っております・・・おりました、と言うべきなのでしょうか・・・。母が子守唄を聞かせていたあの人形は、赤子である私なのです・・・
ですが――ひとたびその眼に殿方を映した時、母の中で・・・その・・・」
「陵辱された時の情景が甦り、目の前にいる男に殺意を抱く――そんなところか」
計都が言い辛そうにした内容を代わりに引き取った三蔵に、計都は頷いた。
「それが判ったのは、何人かの使用人や主治医の先生を襲ってからで・・・心と同様に力の制御も失われている母に首を押さえられた使用人の一人など、私達が止めなければ確実に首の骨を折られているところでしたわ・・・」
先程計都を壁に叩きつけた狂女の力を思い出す。
人の筋力には本来リミッターが存在し、ある程度の力しか出せないようになっている。
しかし、何らかの要因が働いてそれが失われた時、自分の体重よりも重い物を持ち上げたりと驚く程の力を発揮する。
俗に『火事場の馬鹿力』というやつである。
計都の母親も、そのような状態だったのだろう。
「母に今の私は判りません。ですが良鈴の事は判るみたいで――実際そう変わっていないそうですから――、良鈴の言葉だけは聞き入れるんですの。良鈴に付き添われて部屋へ戻った母は、疲れた身体と心を休めるために眠りにつき――目覚めた時には、再び母の心は20年前にいるのです・・・
以来、私は母を本館とは一番離れた棟に移し、極力人の目に触れないように致しました。
幾ら私が朧家当主としての権限を持っているとはいえ、実の母親を葬り去ることなど出来ませんでしたので――」
そう。
現在の計都の権力をもってすれば、誰にも知られることなく母親を抹殺することなど三度の食事より容易いこと。
しかし、たとえ自分が娘である事が判らなくても、そこにいるのは間違いなく自分をこの世に産み落とした存在。
名を呼んでくれなくても、その手で触れてくれなくても、その存在を消すことなど到底出来なかったのだ。
「・・・一番辛かったのは、良鈴ですわ。母のあのような哀れな姿を見ながら、毎日を過ごさねばならず――」
そして、最後には自身の手で最愛の友を葬った。
計都が三蔵を庇ったためとはいえ結果的に我が子に刃を向けた葛葉を見て、良鈴は自らの手で彼女を心の呪縛から解放させようとしたのだ。
「・・・私の、弱さの所為で・・・」
心を病んだ母親が己を縛りつける鎖であるという事を解っていながら、現実に背を向け続けて。
結局は、その弱さが良鈴を傷つける結果を生んだ。
「・・・汚らわしいと――醜いと、お思いでしょう?」
不本意ではあっても、滞りなく当主となるために数々の細工をした自分。
家系存続や財産維持、血統主義――それらに反発しながら、それでも旧家の習性に囚われているという現実。
何より目の前の人物に知られる事を、どれだけ恐れただろうか――
「・・・見くびるんじゃねぇよ」
「え・・・」
「言った筈だ、『ここにいることは嫌じゃない』と。
何を守ろうが、何を隠そうが、そんなのは関係ねぇ。
ンな下んねぇことで・・・お前に対する気持ちが変わる程、堕ちちゃいねぇよ――」
「!・・・・・・」
「信じられんか?」
その言葉に計都は僅かに頬を染め、長い睫毛を伏せながら首を振った――もちろん横に。
「・・・初めてお会いした時から、貴方様は他のどの殿方とも違うと感じました。
私は、私の感覚を信じます――貴方様のお言葉に、偽りなどありませんわ・・・」
そう言って、花が綻ぶように微笑む。
「!・・・・・・」
見惚れる程美しい笑顔に、一瞬言葉を失う三蔵。
「・・・玄奘様?」
見蕩れていた、などとは口が裂けても言えない。
だから、その代わりに――
「!っ――・・・」
言葉で表すのは得意ではない。
だから思いの丈を、その唇に。
最初は驚きに見開かれるも、やがて閉じられる夜空の藍。
僅かな隙間から洩れる吐息に触発され、口付けは更に深いものとなる。
人の温もりなどとは程遠い場所で生きてきたのは、どちらも同じこと。
それでも今、己の唇に感じる温もりを離したくないと思うのは――『大切なもの』だから。
酷く優しい余韻を残して互いの唇を引き離しても、その身体が離れることはなかった。
「――『守りたいもの』なんざ、二度といらんと思ったんだがな・・・」
「・・・私は、守られなければならないものですの?」
少し拗ねた様子に、苦笑を禁じ得ない。
女が守られる生き物だなんて――誰が決めた?
「守られたのは――俺か」
「高くつきますわよ?」
「返してやるよ――利子付きでな。
返済方法は当主の書類業務の肩代わり、期間は30年間で――どうだ?」
「・・・30年・・・?」
僅かに曇る藍を見て、三蔵は計都の耳に何かを囁いた。
途端に、文字通り真っ赤に染まる頬。
それを了承の意と受け止めた三蔵は、ニッと口の片端を吊り上げる。
「契約・・・成立、だな――」
コクリ、と。頷いた拍子に揺れる銀糸が、ベッドランプの光を反射させる。
「――では、承認の印を・・・」
計都の言葉に、再び交わされる口付けは永久の誓い。
神でも仏でもなく、自分自身と――目の前の存在にかけて。
最高僧と名家当主の、何とも奇妙な婚約の誓いは、こうして取り交わされた――
その後公表された2人の婚約に、関係者は皆固まった。
累々たる名家は是非我が子を朧家の婿に、と意気込んでいたのだから無理もないが、当主自身の選択に逆らうことも出来ず、ただ指を加えているしかなかった。
しぶとかったのは、三蔵が寺院を出ることに反対する僧侶達。
最高僧の存在を欠くことで寺院の格が下落する、などと下らない事を危惧する彼らを丸め込んだのは、『この世で最も大切な経文と共にお国の財産である仏像を管理・保護するのは、最高僧であらせられる三蔵法師様にこそ相応しいお役目――そうではございません?』という計都の至極尤もらしい言葉。
加えて、朧家が所有する国宝の仏像1体を長安の寺院に永久安置することを取り決め、僧侶達は渋々三蔵が寺院を出ることを承諾した。
もちろん三蔵にとっては寺院の許可などくそくらえなのだが、計都の立場を考えると流石に駆け落ちというのは宜しくない。
こうやって、最高僧と名家当主の婚姻は、周囲を大いに巻き込んだ挙句成立したのだった。
『三蔵って仏像1体分の値段なんですかねぇ』とは、後の八戒の言葉である――
――朧家の屋敷の片隅――
「・・・本当に、良うございました・・・これで安心して葛葉様の下へ逝けます・・・」
「・・・ざけんな。自分のやったことの落とし前くらい自分でつけろ
計都が当主の座を次の世代に託すまで見守るのが、お前の役目だろうが――」
「!・・・はい・・・喜んで、お仕え致します――」
――悟浄(&八戒)の家――
「――それで、朧家の情報網を駆使したら、あっさり見つかったんですか・・・」
「お前さんが何年かけても捜せなかった物がねぇ・・・で、何処にあったんだ?」
「闇市場に流れて、いわゆる地下競売にかけられてた――『天地開元経典』を競りにかけるたぁ、いい度胸してやがる・・・」
「セリ?経文って朝市にかけられんのか?」
「・・・お前、競りっていったら野菜や魚の競売しか知らねーだろ」
「牛も生きたまんまセリにかけられるんだろ?それっくらい知ってるって!」
「いやそーぢゃなくって・・・」
「えーっと・・・競りっていうのはそういった売買の形態自体を指すんです。
ここで言うオークションというのは、盗品を中心とした高価な美術品を取引するものなんですよ」
「それって犯罪じゃん!」
「ぶわぁか、今頃気付いたのかよ」
「――で、計都はそのオークションに参加したんですか?」
「うわ、そーゆーのってハンパじゃねーんだろ?幾らしたんだ?」
「・・・・・・計都がそんなタマか。同じオークションに数億の値でかけられていた彫像が偽物だって分かってな、そいつをバラさないことを条件にかっさらってきやがった」
「・・・つまり、主催者を脅したと・・・」
「・・・そういうことに、なる」
「・・・・・・流石、三蔵のお嫁さんですねぇ・・・」
「ハハッ、違いねぇ――そりゃそうと、猿は三蔵の弟としてあの屋敷に住むんだって?」
「流石にペットとして連れて行くには無理があったからな・・・激うぜぇが仕方ねぇ」
「ひっでーっ、計都、弟ができたって喜んでたじゃねーかっ」
「んで、新婚夫婦のお宅にはいつお邪魔すればいい?」
「お前は来るな(←即答)」
「んだよ、ソレ」
「害虫と分かって寄せ付ける必要はないってことだ」
「あらーん♪三蔵様ってば、奥さん寝取られるか心配してんの?」
ちゃき
「防虫の基本は害虫駆除だったな・・・」
「ちょっと待て!その手の中のブツは何だよ!?」
「何って、一撃必殺のゴキブリ叩きでしょう?三蔵、何なら○ースレッドでも差し上げますけど・・・」
「3ダースは要るな・・・」
「・・・プロポーズの言葉、ですの?」
「うん!結婚する時には『ぷろぽーず』するのが決まりなんだろ?」
「おい猿!誰からそれを・・・」
「あ、俺もソレ気になる♪」
「同感ですね♪(←犯人)」
「ええ、それが・・・(微笑)」
「言うな、計都!(←必死)」
地位とか財産とか体裁とか。
そんなものはどうでも良かった。
守る必要はないし、守られるつもりもない。
『大切なもの』は、ここに。
『在るべき場所』は、ここに。
共に、生きていきましょう・・・あの時私に囁いた言葉を道標に――
『50過ぎりゃ・・・後は子供に任せて余生を過ごすんだよ。
今から仕込みゃ、その頃には充分務まる歳になるからな――・・・』
|
―了―
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あとがき
なんということでしょう(ビ○ォーア○ター風)、
聖天経文が取り戻されてしまいました(滝汗)。
この後桃源郷に異変が起こって原因究明の任が下されたとしても、三蔵様が承諾するか疑問。
だって三蔵サマを釣る餌がありませんものね(笑)。
逆に「新婚である事を配慮していただきたい」とか言って却下してしまいそうです(苦笑)。 |
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