午の正刻(正午)を告げる銅鑼の音を合図に、皇太子の25歳の誕生日の宴が始まった。 皇帝陛下からの祝辞に始まり、形式ばった挨拶のやり取りが一通り済むと、食事が運ばれ、昼餐となる。 その合間に、進行役が余興の内容を読み上げると、賓客達は広間の中央に注目した。 銅鑼や笛の音に合わせて芸を披露する異国の珍獣。 小さな卓の上で杯の水を一滴も零さず体をくねらせる、驚くほど柔らかい体の女性。 国内随一とされる様々な演技に、賓客は感嘆の息を洩らし、惜しみない拍手を送る。 そして、最後の演目は―― 「宴の最後を飾りますは『桃源楼』、歌と舞の披露でございます――」 貴族の間で評判の妓楼の名に、賓客席がどよめいた。 賓客達が『桃源楼』の噂を囁きあっている間に、年若い芸妓達が床の上に花びらを撒き、花灯篭や香炉を設置する。 『桃源楼』の外であっても、その質を落としたりはしない。 観る者に夢を与える姿勢を崩さないその在りように、賓客達の期待が高まっていく。 女将と思われる年長の女性が前に進み出て、皇太子への祝辞を含めた口上を述べる。 口上が終わると、先程花びらを敷き詰めていた若い芸妓達が、楽曲に合わせながら、群舞を披露した。 袂に隠しているのか、芸妓達が袖を振り上げる度に、袖口から花びらが舞い上がり、華やかさを演出している。 数組の趣の異なる群舞が終わると、引き潮の如く芸妓達は退出し、音楽が一旦鳴りやんだ。 広間は水を打ったように静まり返る。 ――と、 シャン シャン シャン・・・ 鈴の音に合わせて、前へと歩み出る4人の芸妓。 彼女らが持つのは、蚊帳のように四隅を張って下げられた薄絹の垂れ幕。 正面の皇族席近くまで進むと、芸妓達は各々が持つ棒を高く掲げた。 垂れ幕が持ち上がったそこに表れたのは―― 「朧月――・・・!」 誰ともなく唸るように呟く声が、漣のように辺りに広がる。 瑠璃の簪、翡翠の櫛、金糸銀糸で刺繍された絹の衣、 そして――それらすら凌駕する、神秘的な美貌。 『桃源楼』随一、いや都一と謳われる芸妓が、そこに佇んでいた。 「・・・・・・・・・」 それまで、祝辞など右から左へ聞き流し、余興は殆ど見もせずにお義理程度の拍手しか寄越さなかった皇太子が、僅かにだが身じろいだ。 会場の視線を一身に浴びながら、それでも凛とした佇まいで、正面の皇族席に向かって深く頭を垂れる。 その所作の一つ一つが、洗練された優美さを醸し出していた。 「皇帝陛下、皇太子殿下、並びに皇族の皆様方、此度はまことにおめでとうございます。 殿下の未来に幸あらんことを、我が国の未来に光あらんことを祈り、私の拙い舞と歌ではございますが、捧げとうございます」 口上の後、まずは舞から始まった。 宮廷音楽に合わせ、緩急をつけ、華やかに、かつ気品溢れる様で、 『月天の到来』の噂に違わぬその姿に、杯や箸を宙に浮かせたまま見入る者も多かった。 舞が終わり、優美な礼を送ると、朧月は若い芸妓が運んで来た床几に腰を下ろし、同じく運ばれた胡弓を構えた。 「続きましては、弾き語りにございます・・・」 胡弓を奏でながら歌う最初の曲は、実りの秋と休息の冬の情景を謳ったもの。 晩秋に生まれた皇太子を讃美する意味合いも込められたその歌に、居並ぶ賓客も皇族席の面々も、感心したように聞き入った。 「次に歌いますは、故郷に恋うる殿方を残してきた女官の心情を表わした歌でございます・・・」 僅かに語尾が震えたが、それに気付いた者はいなかった。 ――唯一人を除いては―― そして胡弓の調べと共に、玲瓏な声音が広間を満たした。 遠く 遠く 彼方 愛しい 愛しい 貴方 たとえ我が前に 千里の山そびえど たとえ君の前に 万里の海広がれど この声 この この音 この 遠く 遠く 彼方 愛しい 愛しい 貴方 たとえこの身が 地獄の火に焼かれど たとえこの身が 時の流れに飲まれど 恋する気持ちを 忘れなどはしない 愛する心を 棄てたりなどしない 遠く 遠く 彼方 愛しい 愛しい 貴方 たとえこの目が 光を失えど たとえ鼓動が 力尽き果てれど 空よ 雲よ この声 鳥よ 風よ この歌久遠に届かせよ たゆとう旋律に合わせて珊瑚のような唇から紡ぎだされる歌詞は、離れ離れになった想い人を慕い続ける女性の切ない恋心を綴ったもので、 広間のあちこちに控えている女官などは、涙を流して聞き入るほどであった。 歌い終わり、床几から腰を上げた朧月が床に三つ指を突いて礼を送ると、割れんばかりの拍手が朧月に送られる。 皇族席の面々も同様だ。 「これだけ心を震わせる歌、そうあるもんじゃない。 三蔵、お前はどう思う?」 皇帝陛下の呼び掛けに、三蔵と呼ばれた皇太子は、ハッと我に返る。 「・・・まるで、想い人と離れ離れになったのが、あの者自身であるかのように聞こえました」 そう、恐らくは、 あの歌詞の内容は、他ならぬ彼女自身の想い。 故郷にいる想い人を、会えぬと解っていても恋い慕う、切ないまでの―― 「確かに、真に迫る歌いっぷりだ。 あまり技芸に感動することのないお前がそこまで言うんだ、あの者にお前から何か褒美を与えてはどうだ」 「私が・・・ですか?」 「この宴の主役はお前だろう。お前でなくて誰が出来るんだ」 「・・・・・・」 暫く逡巡した後、皇太子は椅子から立ち上がった。 会場が、シンと静まる。 「朧月といったか、噂に違わぬ都一の歌声だ。 その声に相応しい褒美を与えたい。何か望む物はあるか?」 宴の席で、最も秀でた芸を見せた者が褒美を受け取る事自体は、特に珍しい事ではない。 しかし、どんな技芸に対しても眉一つ動かさない事で有名な皇太子が、そう言い出したのだ。 彼をよく知る臣下達の間にどよめきが走った。 一席三両とも五両とも言われる朧月が、皇太子から何を賜るのか。玉の簪か、絹の衣か。 注目の中、三つ指を突いて頭を下げたままだった朧月は、ゆっくりと顔を上げた。 「有り難き幸せにございますが、盲いたこの身には、玉も衣も、赤子に与えるが如く無意味にございます。 殿下のお褒めの言葉こそ、芸に生きる者にとって最高の褒美といえましょう」 ほう、と賓客席から感心したようなため息が広がる。 芸妓であれば、何を差し置いても身を飾る衣や装身具を手に入れようとするものだ。 金品への執着を跳ね除け、芸妓の矜持を守り続けるその姿勢に、賓客達は彼女を褒めそやした。 それは、皇太子もまた同様だった。 「その心掛け、実に見事だ。 ならば、この席の記念に、お前が髪に挿している花をもらいたい。良いだろうか?」 皇太子の言葉に、朧月は長い睫毛を伏せ、 「殿下の、お望みのままに・・・」 だが、盲いた朧月では、他人の手で挿された花を、髪を乱さず抜き取るのは難しい。 それを察した女官が前へ進み出るより先に、皇太子が段を降り、朧月の下へ歩み寄った。 「取るぞ」 朧月にだけ聞こえる声で言うと、その美しい銀糸に手を伸ばす。 きっちりと結い上げられた鬢を崩さぬよう、手を添えながら花を引き抜こうとすると、 「っ!?」 指に鋭い痛みが走り、もう少しで声を上げそうになった。 良く見れば、結い上げられた鬢には、櫛や簪があらゆる方向から挿されている。 恐らくは、その尖端に、指が触れてしまったのだろう。 女性が櫛や簪を挿すのは当然のことだし、花を所望したのは自分だ。 指を刺したのももちろん自分の過失なので、ここで自分が指を刺した事が周囲に知られて、朧月が罰せられるような事態になってはならない。 咄嗟にそう判断し、何事もなかったかのように花を抜き取った。 花は、青紫色の小房のものが幾重にも連なり、葡萄の房のような紡錘形に垂れ下がっている。 「――藤か」 「・・・・・・はい。初夏に蕾の付いた物を氷室に入れることで、この季節でも花を愛でていただけます。 もし小房がこぼれましたなら、杯に浮かべるのもまた一興かと・・・」 「そうしよう」 そして、髪の乱れを整えてやる振りをして顔を近付けると、囁くような声で、 「大した成長ぶりだ――『計都』」 「――っ!!」 それまで慎ましやかに伏せられていた目が、驚愕に見開かれた。 そこで顔を上げるような無礼を働かなかったのは、偏に訓練の賜物だろう。 紅を施した艶やかな唇を戦慄かせるが、洩れる息は音にならず、 代わりに深々と額付くことで、謝辞の意を表わす。 それに合わせて会場に居並ぶ者全てが2人を讃える拍手を送り、『桃源楼』の演目は終了した―― 宴が終わってからも、会場ではまだ貴賓達がそこここで立ち話をしている一方、裏方では後片付けに混乱を極めていた。 何せ女官や仕官だけでなく、宮廷料理人、出張料理人、そして『桃源楼』の芸妓ら余興のために呼ばれた者達を合わせれば、300を下らない人数が大広間周辺の建物を行き来しているのだ。 中でも『桃源楼』の芸妓達は、この後更に店に出なければならない(といっても、店には倍以上の留守番組がいるので、数刻の余裕はあるだろうが)ので、てんやわんやだ。 再び外出用のいでたちを整え、下女が荷物をまとめるのを待っていた朧月に、女将が近付いた。 「よくやったね朧月。ここまで上手く運ぶとは、私も思わなんだよ」 「・・・有難うございます」 「これであのお方も、枕を高くして寝られるってもんさ。私達の行く末も安泰だよ。ねぇ?」 「・・・・・・はい」 上機嫌な女将とは対照的に、朧月の口から洩れるのは、感情の窺えない声音。 それには気付かず、頬の緩みを抑えられないといった風の女将に、一人の下女が近付いた。 「おかあさん、女官の方がお見えです」 「え?何だろうね、一体」 下女の報せに、女将は綻ばせていた口元を引き締め、廊下へ出て行った。 が、幾らも経たないうちに部屋へ戻ると、興奮したように、 「皆、よくお聞き。陛下が私達の芸を殊の外お喜びになって、褒美にお茶と甘味を賜って下さるそうだよ。 別の部屋に仕度されているらしいから、そこらを片付けたら廊下に出なさい。女官の方が案内して下さるそうだから」 その言葉に、部屋中の少女達はきゃあっ、と黄色い声を挙げた。 芸の道一筋に生きる芸妓とはいえ、やはり甘い物の誘惑には弱いと見える。 「朧月、お前はどうするね?」 「・・・私、は・・・」 光を映さぬ 普段店の中では健常な者と変わらぬ振る舞いをしている朧月だが、勝手の判らぬ建物の中ではそうもいかない。 かといって、女将までここに残るのは、皇帝陛下に対する無礼と捉えられかねない。 「・・・私は、皇太子殿下から直々のお言葉という、充分過ぎるほどの褒美をいただいております。 ここで留守番をしておりますので、どうぞおかあさんも行って下さいな」 「そうかい。じゃあちょっと行ってくるよ」 芸妓達の後に付いて女将が部屋を出ると、後には朧月一人が部屋に残った。 人一倍感覚の鋭い耳を澄ませ、誰もいないことを確かめると、朧月は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。 「・・・・・・っ、・・・ぅっ、・・・・・・っく、――・・・っ!!」 上質の絹の打掛が皺になるのも構わず、自身をかき抱き、唇を噛み締めて嗚咽を殺す。 涙一つ零れないのは、とうの昔に涸れ果てたから。 「・・・あの方・・・あの御方は・・・」 両親を亡くしたばかりの、絶望しかなかった幼い頃、 遠い彼の地で死のうとしていた自分を押し留め、生きる力を与えてくれた人物。 売られ、買われて各地を転々としつつ、芸の腕を磨き続けたのは、 『生きて、都に知られる人物になれ』 身分の高い若君ということは分かっていた。 恐らくは、あの地方の豪族ではないかと。 都で名を上げれば、もしかするとその名声が彼の地まで届き、その人の耳に入るかも知れない。 もう一度、逢いたい。逢って、礼を言いたい。 そう、願っていたのに―― 「私・・・どうすれば・・・・・・」 彼の人に、伝えなければならない。 それは、文字通り命懸けの行為だ。 だが、このままにしておくわけにはいかない―― ――コト 「――っ!?」 突然、天井板の外れる音が、朧月の耳に入った。 目の見えない分、常人より研ぎ澄まされた感覚だからこそ聞こえた、ごくかすかな音。 「・・・誰です、そこにいるのは・・・・・・?」 |
朧月が歌った歌はオリジナルですが、雰囲気は『ファン・ジニ』の挿入歌のような感じで。 韻の踏み方などは完璧無視ですのでご容赦の程を。 時刻表示はこの後も頻繁に出てくるので、少し説明をば。 東洋風パラレルファンタジーに相応しく、時刻の表記はいわゆる『時辰』を用いております。 1刻は2時間、深夜の0時を挟んだ前後1時間ずつの区分が『子の刻』となり、前半1時間の初めの時刻(=23時)が『子の初刻』、後半1時間の初めの時刻(=0時)が『子の正刻』となります。 分刻みの時刻を知る必要性がなかった事を感じさせる表現ですね。 |
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