朧月は咄嗟に立ち上がると、髪に挿していた簪を抜き取り、逆手に握って構えた。 「わ、ちょっと、姉ちゃん、俺、別に刺客(暗殺者)とかじゃねぇって。 こーてーへいかに頼まれて、姉ちゃんに会いに来たんだ。そこに降りるから、じっとしてて」 聞こえてきたのは、想像したものよりずっとずっと幼い――子供の声。 『こーてーへいか』という単語が、『皇帝陛下』を指すのだと気付くと、臨戦の構えを緩めた。 それを確認した子供は、天井から飛び降り、驚くほど軽やかに着地した。 「俺、悟空。金ぜ・・・えぇと、皇帝陛下に言われて、色んな事を偵察するのが仕事なんだ。 っていっても、金蝉が飼ってる小鳥が時々逃げるのを捕まえることの方が多いけど」 「私は、朧月よ。 悟空君、っていうの?『皇帝陛下に頼まれて』って、何を頼まれたのかしら?」 「悟空、でいいよ。悟空君、なんて自分の名前じゃないみたいだし。 姉ちゃん、三蔵に何か言いたい事ない?俺は宴の席にはいなかったけど、こん・・・皇帝陛下は姉ちゃんが、三蔵に言いたい事があるけどでも言えないって感じだったって気にしてた。 三蔵に言いたい事があるんなら、聞いて伝言しろって言われてさ」 「・・・『三蔵』様と仰るのは、ひょっとして・・・」 「あ、ヤベ、『こーたいしでんか』って言わないといけなかった」 「・・・・・・っ!」 この道に生きる者は、容易く心の内を読まれてはならない、 そう、何度も言い聞かせられたのに。 今の皇帝は只のお飾りで、殆ど無能であると言うのを大臣達などからよく耳にする。 しかしひょっとすると、相当鋭い観察眼の持ち主なのかも知れない。 ともあれ、これは千載一遇の好機だ。 「悟空君・・・悟空、ちょっと待っててもらえるかしら?今、皇太子殿下へのお手紙を書くわね」 「おう!」 朧月は懐紙と携帯型墨壷を取り出すと、目が見えないとは思えないほど流れるような所作で何かを書きしたためた。 短冊形に折ったそれを新しい懐紙で包むと、帯に挟み込んでいた小さな匂い袋と一緒に、悟空に持たせて言った。 「この手紙に、私が殿下に伝えなければならない事が書かれているわ。 必ず、この匂い袋と一緒に渡して頂戴。お願いよ」 「任せて!」 どん、と胸を叩くと、悟空は降りてきた天井に飛び上がり――猿並みの跳躍力だ――、部屋には再び朧月一人が残された。 あの、十になるかならないかというような少年を、全面的に信じていいのか判らない。 ただ、今の自分に出来る事は、あの少年を頼る事だけなのだ。 これが公になれば、巻き込まれる人の数は十や二十ではなくなるのだから―― 「お願い、どうか間に合って――・・・」 真摯に祈るような呟きは、誰に聞かれることもなく、暮れゆく空の明るさと共に散っていった―― 「どうなさいました、殿下?」 宴が終わり、自室に戻った皇太子の様子がおかしい事に、皇太子傅は気付いた。 心なしか顔色が悪く、額には薄っすら汗が滲んでいる。 「いや・・・少し飲み過ぎただけだろう・・・」 そう言って額の汗を拭おうとしたその手を見て、皇太子傅は目を眇めた。 「ちょっと見せて下さい」 「おい・・・」 やや強引に左手を取られ、流石に文句を言おうとするが、皇太子傅の真剣な表情に、開きかけた口を噤んだ。 「この傷・・・棘でも刺したんですか?」 「・・・・・・そうだ」 「そうですか・・・」 落ち着いた声音とは裏腹に、その目に殺意にも似た冷たい灯が灯り、その迫力に気圧される。 「な、お前・・・」 「棘を刺したと仰るのなら、何処に棘があったのか、教えていただけませんか。 椅子や机であれば家具職人を、食器であれば食器職人を、花瓶の花であれば女官を――今の殿下の体調不良が傷病みだとしたら、その原因である棘を取り除かなかった者の罪とし、厳しく罰しなければなりません」 明日、即位の儀が行われれば、皇太子は正式に皇帝陛下となる。 つまりは玉体に傷を付けたのと同じ意味となり、場合によっては流刑などの重罰の対象にもなり得るのだ。 どちらかといえば冷静沈着で争い事を好まない皇太子傅だが、自分の信念を貫く余り、時として冷酷非道な振る舞いに転ずる事を、失念していた皇太子だった。 「ンなんじゃねぇ、単なる俺の過失だ。 薬湯風呂は用意したか?さっさと休まんと、明日が本番だからな」 「殿下!!」 コンコン 「失礼致します。近衛府大将補佐天蓬殿が皇太子殿下と皇太子傅殿お2人に面会を、とのことです」 「え?」 「・・・通せ」 東宮執事の案内で入ってきたのは―― 「兄さん・・・どうしたんですか、一体・・・」 唖然とした口調で、己とよく似た面差しの実兄を迎える皇太子傅。 現在の地位は近衛府大将補佐だが、その実天蓬という男は様々な顔を持つ。 現皇帝のかつての学友でもあり、先代・先々代の皇帝の御世に於いては、目の前にいる皇太子の教育係兼側近でもあった。 ――その立場は、前皇帝が崩御し、現皇帝が即位した時に、弟に譲り渡したのだが。 そして近衛府に配属される一方で、皇帝の私的な命による非公式な調査を請け負ったりもする。 今回は、その目的で来たということだろうか。 「久し振りですね、八戒。皇太子殿下、お誕生日おめでとうございます♪」 「まさかそれだけを言うためにここに来たわけじゃねぇよな?」 「あはははは。若様、いえ殿下は変わりませんねぇ。何度言っても口調は直らないし、目付きの悪さもあの頃のままですよ」 「――帰れ」 「話が済んだら退散しますよ。 話というのは――今日の宴席の事なんですけどね・・・」 「・・・・・・」 天蓬の口から出た内容に、皇太子の視線が揺れる。 ややあって、ため息を一つつくと、傍の椅子を顎で示した。 元教え子の相変わらずな様子に、天蓬は苦笑しながらも、無言で腰を下ろす。 「――手短に話せ」 「僕は宴の最中は会場周辺の警備をしていたので、宴の様子は存じ上げないのですが、殿下、貴方『桃源楼』の看板芸妓が身に着けていた花を所望したそうですね?」 「・・・あれは、こちらが言い出した事だ。金品での褒美を断ったんでな・・・」 「えぇ。一見すれば、優れた技芸を見せた者から記念の品を受け取っただけで、そこに何某かの思惑があるとは思えない。 ですが、少し厄介な事情がありましてね・・・」 「兄さん、それはどういう・・・」 「宴の始まる前に、少し気になる光景を目にしたんです。 よもや衆人環視の中で、不穏な振る舞いに走る者などいないだろうと高を括っていたのですが、その後金蝉・・・失礼、皇帝陛下から貴方が朧月という芸妓から花を受け取ったと聞きまして、不安になったものですから。 というわけでして殿下、受け取った花を、調べさせてはいただけないでしょうか?」 応えは、返ってこなかった。 「殿下?・・・殿下!?」 いつの間にか、薄っすら汗ばむ程度だった額には、大粒の汗が玉のように浮かんでいる。 肩で息をする様子は、先程まで尊大な態度を取っていた人物とは思えないほどに弱々しい。 「まさか、指の刺し傷に、毒が・・・?」 「刺し傷?八戒、どういう事ですかそれは?」 「それが・・・」 コンコン 扉ではなく天井板を叩く音に、八戒は警戒心を、天蓬は安堵を持って上を見上げた。 「あぁ、やっと来た・・・悟空、降りてらっしゃい」 「悟空?・・・天蓬、これは一体・・・?」 「話は後で・・・悟空、陛下が仰っていた芸妓に会えましたか?」 「うん。三蔵にこの手紙とこいつを渡してくれって頼まれた。 三蔵・・・どっか悪いの?」 「・・・うっせぇ、猿・・・」 「俺猿じゃねぇって!」 「手紙を・・・寄越せ・・・」 「あ・・・う、うん」 言われて、腰に下げている巾着から、朧月の手紙と匂い袋を取り出した。 半分椅子からずり落ちそうになりながらも、それらを受け取り、手紙に目を通す皇太子。 「やはり、か・・・おい八戒、こいつの中身を煎じろ」 「この、匂い袋ですか・・・?」 「殿下、その手紙、見せて下さい」 懐紙に書かれた手紙を皇太子の手から奪い取ると、さっと目を通した。 目の見えない朧月は、しかし随分と達筆な草書を書きこなしている。 紙から筆を離さず書く書体なので、朧月には適しているのだろう。 その内容に、困惑したような顔を皇太子へと向ける天蓬。 その表情の意味するところを過たず読み取った皇太子は、荒い息を吐いていた口元を、嘲笑うかのように歪めて言った。 「――そうだ。そいつは・・・朧月は、10年前、俺が入水を止めた、計都という女だ――」 『今日殿下に献上した花は、藤に似た毒草です。 この花だけでは死に至る事は少ないですが、殿下の周囲に仕込まれた幾種もの毒を帯びた状態で、花を酒に浸したものを服することで、強い毒となります。 既にお飲みあそばした後であれば、直ちに袋の中の解毒剤を煎じてお飲み下さい。 そして、貴方様の御手で、私を殺して下さい。 今宵子の正刻(深夜0時)、店の裏手にある川沿いの柳の木の下で、お待ち申し上げます。 自害することは、貴方様の指図に反します。 役人の手での処刑など、望みません。 私の命は、貴方様の御心のままに。 |
計都』 |
悟空に関する裏設定(笑)。 元は軽業師一家に生まれた子供だが、流行り病で家族全員死亡、孤児となり国が建てた養護院で育つ。 ある日金蝉がうっかり逃がしてしまった小鳥を、身軽に木に登って捕獲した事がきっかけで、金蝉の非公式な偵察要員となる。 戸籍上は捲簾の養子(爆)として近衛府の寮に住み、表向きは金蝉の毒見役兼残飯処理係として過ごす。 宮廷内に於いてはマスコット的存在(笑)。 |
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