誘いの驟雨





 訳の解らないはっぱをかけられたものの、そう度々計都の下を訪れることが出来る程三蔵は暇ではなく。
 あの蒼ざめた美貌を気にしつつも、膨大な量の公務に追われる毎日が続いた。
 そして2週間後――
 とある山寺での行事に慶雲院代表として参列した三蔵は、行事が終わって帰路につこうとした矢先、寺の僧正に呼び止められた。

「ああ、三蔵様。三蔵様には馬車をご用意致しておりますので・・・」
「馬車?」
「はい。朧家の御当主より仰せつかっておりまして――」
「・・・どういう事だ?」

 前触れも無く出てきた意外な名に、三蔵の目が訝しげに眇められる。
 その気迫に恐縮しながらも返された答えは、至極単純なものだった。
 今回の行事に用いられた宝剣は朧家が保管・管理しているもので、毎年この行事の時のみこの寺に貸し出されるのだという。
 そういった経緯で朧家と関わりを持つこの寺の僧正に、事前に計都が頼んでおいたのだ。

「今日は雲行きも怪しく、日暮れが早い様子。本来ならばこちらでお部屋をご用意致したいところですが、何分にもこの通りの古寺故三蔵様をお泊めするにはお恥ずかしい限りでございまして――その矢先に御当主御自らお申し出下さったわけでございます・・・」

 つまり、本日の宿はあの屋敷だということになる。

 ――なかなかやるじゃねぇか――

 儚げな印象の中に、一本芯の通った強さを持つ少女。
 だからこそ想いを寄せるようになったのは、三蔵も否定出来ない事実。
 けれど、自分が思った以上に彼女は太くたくましい根性の持ち主なのかもしれない。
 新たな発見に対して湧き上がる感情に、苦笑を禁じ得ない三蔵であった――








「お待ち申し上げておりました、玄奘様・・・」

 今にも降りだしそうな厚い雲に、まだ地平線に沈んでいない筈の太陽はすっかり姿が隠れてしまっている。
 良鈴と外部から特別に呼んだ護衛を伴って宝剣を蔵にしまった後、計都は三蔵を初めてこの屋敷に泊まった時と同じ部屋に案内した。
 以前と違う点といえば、一輪挿しに挿されているのが遅咲きの竜胆であるというくらいか。
 いや、もう一つ――
 サイドテーブルに置かれた、陶器の灰皿。

「・・・あれから買ったのか?」

 以前この屋敷に来た時は無かったのだから、当然最近購入したことになる。
 他でもない三蔵の為に――

「お体の事を考えるとあまり吸っていただきたくはないんですけど・・・」

 でも不便ですから、と柔らかく微笑む姿は、三蔵にとって既に見慣れたという域に入っているから凄い。

「お食事の用意も出来ておりますけど――先にお湯を使われますか?」

 そう言ってしまってから、計都は顔を真っ赤にした。
 まるで妻が夫に掛ける言葉のようではないか。
 しかし、哀しいかなそれが解る程三蔵は世間一般の事柄に詳しくはなく。
 突然頬を染めた計都を不思議そうに見やるだけだった――








 ザアアアアアァァ――――・・・ッ



 食事と風呂を済ませ、ベッドの縁に腰掛けながら雨粒が激しく打ちつける窓を見つめる三蔵。
 思い出すのは遠い過去ではなく、現在と全く同じ状況の2週間程前の出来事。
 あの日雨が降らなければ、今ここに自分はいなかった。
 そして――こんな感情を抱くこともなかった――
 我ながら、現金なものだ。
 そう考えて、自嘲の笑みを浮かべた時、



 コンコン



 あの日と同じように鳴らされたノックの音。
 誰が何の用で、なんて考えるまでもない。

「入れ」

 失礼致します、とこれまたあの日と同様に入って来た計都は、目が見えないとは思えない程の滑らかな動作で手にした盆を紫檀のテーブルに置いた。
 盆には酒のボトルとグラスが――2つ。

「飲むのか?」

 少し意外に思って聞けば、

「二十歳ですもの、少しは嗜みますわ」

 柔らかい微笑みと共に返される。

「・・・そうか・・・」

 それから10分程の間、明かりを落とした部屋で2人は互いに一言も喋らず飲み続けた――といっても計都はグラスの半分程度しか空けていないが。
 時折、グラスに注がれる液体やその動きに合わせて氷が踊る音が静けさを強調するようで。
 あとは、窓の外から聞こえてくる雨の音のみが広い空間を支配していた。
 雨の音は好きではないが、この澱みを薄めるような清浄な空気は嫌いではない。
 自身が作り出している澱んだ空気を薄めているのは、他ならぬ目の前の少女。
 そして、その清浄な空気を求める自分がいることは、既に疑い様のない事実で。
 ――手放すことの出来ない存在――
 不意に静寂を破ったのは、呟くような計都の声。

「今日は・・・以前程悲しくはないのですね・・・」

 それは、計都独特の感覚。
 目が見えない分他人のまとう気配や空気に敏感な計都は、雨の日に三蔵の気鬱が下落するのを鋭く察知した。
 けれど、今夜はそれが幾分和らいでいるように感じられる。

「・・・毎回毎回気落ちしてられる程暇じゃねぇよ・・・」

 原因となっている人物にそれを告げられる程正直ではないが。
 感情の浮かびにくい目が柔らかい微笑みと共に細められるところを見ると、気付かれているのかもしれない。
 コトリ、と中身が3分の1程残ったグラスを置くと、計都は見えない眼を窓へと向けた。

「・・・私だって、雨はあまり好きではありませんわ。地面や石畳が濡れると歩くのも一苦労ですもの。でも――」

 そう言って、つと立ち上がると窓辺へと歩み寄り、重いカーテンを開く。
 滝のように降っていた雨はいつしかその勢いを弱め、時折木々の葉に当たった雫がパラパラと軽い音を立てている。

「・・・雨が当たると、花や緑の香りが濃くなりますの。
 雨と共に光る雷ですとか、雨上がりに空に架かる虹ですとか、そういったものは私には見ることが叶いませんが・・・その分、香りや音が私を和ませてくれますし・・・
 それに・・・雨が止んだ後の清々しい空気は私、好きですわ。
 雨がもたらす恵みが、玄奘様にもおありでしたらいいのに――」

 その言葉に、この屋敷へ来た最初の日を思い出す。

「・・・無いわけじゃ、ねぇな・・・」
「――え?」

 三蔵はグラスを置いて立ち上がり、小首を傾げる計都に近付いた。

「2週間前――あの時、雨が降ってなければ、ここで雨宿りすることもなかった・・・
 ――お前とも、出逢うことはなかった――」
「!・・・・・・」
「失った事実を取り消すことは出来ないし、そのつもりもねぇ。
 だが――得られたものは、ここにある――・・・」

 言われて、頬を染めながら俯く計都。
 雨はまだ降っているが、いつしか雲の一部が切れ、十三夜の月が顔を見せている。
 眩い月光を受けて真珠色に煌めく髪を一房手に取り、それに口付けた。
 かすかに感じた気配の変化に、僅かだが顔を上げる計都。
 その顎に指を掛け、つい、と上を向かせた。
 夜空と同じ深い(あお)が三蔵の眼に入る。
 光を映さないそれは、しかし月光を反射させて至高の輝きを放つ。
 さながら、磨き上げられた極上の鋼玉。
 吸い込まれそうなその色に誘われるかのように顔を近付け、小さく形の良い唇を己のそれで塞ごうとした時――

「!っ・・・」

 突然三蔵の手を払いのけて顔を背けた計都に、一瞬拒絶したのかと思ったが、どうやら様子が違う。
 つい先程までほんのり紅潮していた頬は一転して蒼ざめ、唇は色を失っていた。
 それは、いつだったか三蔵が違和感を覚えた時と同じ表情。
 見えない眼が向けられた先は、この部屋のドア。
 計都が何か異変を感じ取ったというのなら、それは音か匂いか気配によるもの。
 そう判断して、両の耳に全神経を集中させると――

「・・・歌、か?」

 ごくごくかすかだが、雨の音も弱まりつつある闇の中、女性特有の細く柔らかい声が穏やかな旋律を奏でるのが聞こえてくる。
 三蔵の言葉に、計都の肩がピクリと震えたように見えた。
 明らかに、計都はこの歌声の主を知っている――

「計都・・・」

 計都の反応からして、歌っているのは以前目にした、長い薄茶色の髪の持ち主。
 あれから2週間近く経ってもまだこの屋敷にいるということは、彼女もこの屋敷の住人なのだろう。
 だが、それにしては様子がおかしい。

「計都、あの声は・・・」
「玄奘様」

 常より硬く低い声で三蔵の声を遮り――普段の計都ならまずそのようなことはしない――、見えない眼を三蔵に向ける。

「この屋敷で起こる不祥事は、全て私が朧家当主の名の下に対処する義務があります。
 客人(まろうど)でいらっしゃる玄奘様はどうかこちらに・・・」

 その響きは、一人の少女のそれではなく、誇り高き朧一族の当主としてのもの。
 屋敷内の出来事について全権を持つ若き当主には、たとえ三蔵でも逆らうことは許されない。

「私が戻るまで、決してこの部屋をお出にならないで下さい・・・」

 そう、定まらぬ視線を懸命に三蔵に向けて告げると、ドアへと歩を進めた。

「おい・・・」

 三蔵の呟くような声は、それでも計都の人並み外れた聴力を有する耳には充分に聞き取れた。
 ドアノブに手を掛けながら、振り向く計都。
 その美しい相貌に浮かぶのは、いつかと同じ哀しげな微笑み。
 抱えるものの大きさに、いつの間にか逃げ道を探した卑怯な自分。
 そんな己の醜さを、彼の人だけには知られたくなかったから。
 だから――

『・・・お許し下さい・・・』

 声としてではなく、三蔵の心に直接聞こえたその言葉。
 ともすれば押しつぶされそうな哀しみを独り抱え、計都は薄明かりに照らされた廊下へと足を踏み出した――








 眠れ 眠れ 可愛い子よ
 夜が来ました
 みんな みんな おやすみなさい
 朝になるまで――・・・



 柔らかな声が紡ぐのは、赤子を夢の世界へといざなう子守唄。
 歌いながら、ゆっくりと廊下を歩く寝間着姿の女性。
 自分より若干背の低いその女性の前に、計都は歩み寄る。
 湧き上がる哀しみは、誰に対してのものだろうか――
 と、計都に気付いた女性が歌うのを止め、顔を上げた。
 美しい顔立ちだが、よく見ればその肌は艶を失い、それなりの年月を経ている事が判る。
 長い薄茶の髪は、廊下の薄明かりに照らされて琥珀色に輝く。
 計都よりやや明るい蒼い瞳は、しかしどこか現実味に欠けている感が拭えない。
 その瞳が計都を認めると、女性は丁寧な物腰で口を開いた。

「あぁ申し訳ございません、お耳に障りまして?
 この子がどうしても泣き止まないものですから、子守唄を、歌っておりますの・・・」

 それは上の者に対してというより、見知らぬ者に対するような口振り。
 謝罪を述べる女性の腕の中で抱かれているのは――赤子程の大きさの、人形。
 物言わぬ人形をあやしながら、再び女性は歌いだした。



 眠れ 眠れ 可愛い子よ
 夜が来ました
 みんな みんな おやすみなさい
 朝になるまで
 鳥も リスも 夢の中です
 ブナの林で
 風の唄を 聞いて眠れよ
 みんな みんな ねんね――



 柔らかな声が紡ぐのは、幼い頃よく聞いた子守唄。
 その歌声を、計都は耐え切れないというように耳を塞いで遮った。

 ――ヤメテ、キキタクナイ
 ――ワタシニキカセタウタヲ、ソンナモノニキカセナイデ

「・・・もう・・・」
「おい――」

 口を開きかけた計都を呼んだのは、いつまでも聞こえる歌声に静止を聞かずドアを開けた三蔵。

「!――玄奘様・・・来てはいけません!!」

 まるで悲鳴のような声を上げて、計都が三蔵を押し留めようとした時。

「・・・・・・・・・・・・」

 見開かれる蒼い瞳。
 手から落ちる人形。
 移動する時間軸。
 襲い掛かる悪夢。
 湧き上がる感情は・・・嘆きと怒りと嫌悪と――殺意。

「い・・・や・・・いやああああぁっっ!!」

 長い髪を振り乱し、内側から膨らむ何かを押さえるように頭を押さえ、身悶える。
 どう見ても尋常ではない。
 そう見て取った三蔵は、廊下に出て計都の傍に駈け寄った。

「計都・・・これは・・・」
「来てはなりません、お戻りになって!!」

 半ば強引に、三蔵を客室へと押し戻そうとする。
 見られたくないのは――結局のところ旧家の習性に囚われている、醜い自分。
 こんな形で知られたくはなかった――
 見たこともない計都の激しい態度に流石の三蔵も困惑するが、視界の端に鈍い光を認めて我に帰った。

「!!っ」

 咄嗟に、計都を腕に抱えるようにして横に跳ぶ。
 女性の手に握られているのは、人形ではなく――短刀。
 廊下の薄明かりに反射してギラリと光るそれを、両手で逆手に握る。
 その瞳に宿るのは、先程までの人形に子守唄を聞かせていた時のそれとは全く違う光。
 手中の刃と同じくギラギラと光る――さながら猛り狂った獣の眼。

「お願いです、もう・・・もう、止めて下さい!」
「おい!」

 短刀を持っている事が判らないのか、三蔵が止めるのも聞かず狂女に縋り付く計都。
 しかし――

「邪魔しないで!」
「あぁっ!」

 齢を重ねた女性とはいえ、その精神に制御の効かない狂人は力に関しても同様で。
 力一杯払った腕に、計都の身体は勢いよく壁に叩きつけられた。

「・・・ぅ・・・」
「計都!」

 恐らくは急激に肺が圧迫されただろう計都の身を案ずるが、狂女の言葉に改めて状況を理解する。

 狙いは――俺か。

 彼女が命を狙うのは、計都ではなく自分。
 壊れた彼女の心の中で何が起こってるかなど、三蔵には知る由もないが。
 次の一撃が来た時に、攻撃をかわしながら武器を取り上げる――そう考えながら身構えた時、ゆっくりと立ち上がった計都が悲痛な叫び声を上げた。







「・・・止めて・・・下さい・・・――止めて母様――!!」







生みの親が老いたり病んだりするのは、子供としては辛いものです。
計都とその母親を救うのは三蔵か、それとも――?
計都の母親が歌う子守唄は、モチーフがあります。
某音楽教室に通ったことのある方なら、もしかしたら判るかも。







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