悠久の旋律





 「・・・・・・ふぅ・・・」

 日もすっかり暮れ、代わりに顔を出した月を見上げながら、三蔵は溜め息をついた。
 今の彼の心情を一言で表すなら『疲れた』だろう。
 その原因である少女は、未だに意識を失ったまま横たわっている。
 引き裂いたシャツの下からあらわになった胸は、第二次性徴を迎えた少女特有の未成熟な丸みを帯び。
 それを完全に無視出来るほど、三蔵は子供でも大人でもなかった。
 羞恥に震える手で、血まみれの着衣を取り去る。
 日に焼けることのない白い肌は、しかし矢の刺さった部分だけドス黒く変色していた。
 矢に毒が塗られていた事は、火を見るより明らかだ。
 狩猟用の即効性の毒でなかったことだけは、不幸中の幸いというべきか。
 毒矢に襲われたことなどないが、毒虫に噛まれた時の対処法は心得ている。
 左肩から右の脇腹にかけてたすき掛けのように布で縛ることで血液の流れを一旦止めた後、矢を抜いた傷口を切開して毒血を吸い出す。
 右鎖骨の下にある傷口に唇をあてる自分の姿がどんなものなのか、考えただけで全身の血が沸騰しそうになる。
 唯一の救いは、少女が意識を失ったままだったことだろう。
 やっとの思いで毒を帯びた血液を抜き終わると、今度は解毒剤を飲ませなければならなかった。
 ここでも三蔵は再び躊躇したが、汗の滲む相貌を苦しげに歪ませる少女を見て、意を決する。
 毒血を吸い出した口を丹念にすすぎ、清水を含む。
 丸薬を薄く開いた口に押し込み、口移しで清水を流し込んだ。
 顎を軽く押し上げれば、反射的に嚥下する。
 もう一度水を与えてから汗を拭ってやると、畳んだ衣服を枕代わりに、マントを掛布にして少女の身体を横たえた。
 一通りの処置を済ませてふと気付けば、木々の間から光を投げ掛ける満月。
 零れ出た溜め息は、それまで溜め込み続けた緊張感そのもののような気がした。

 ――ガラにもねぇな・・・

 自分が緊張するなど。
 思えば、自分と同じ年頃の少女と関わり合うことなど一度もなかった。
 金山寺にいた頃はもちろん、2年前にそこを出て一人で旅を続けている現在もそうである。
 他人との関わり合いを極端に嫌う性分もさることながら、師の形見を必死に追うあまりに他の事に興味を感じなかったということもあるのだろう。
 己の生き様が間違っていたとは思わないが、もう少し冷静に対処出来るくらいの心の余裕は必要だったかもしれない。
 そこまで考えて、ふと三蔵はある事に気付き顔を上げた。
 少女の荷物を探さねばならない。
 旅装束をまとっていたのだから、着替えの一つくらい持っているだろう。
 出会った時の状況から考えても、ここからそう遠くない場所に放り出されている筈だ。
 そう結論付けると、三蔵は腰を上げ、焚き火から火の点いた枝を手に取った。
 月明りと松明の光を頼りに自分が歩いてきた方向とは反対の道を歩けば、程なくして目当ての物が見つかる。
 必要最低限の物が入っているだろう布袋と――

「何だこれは・・・」

 紫の繻子に包まれ、房の付いた紐で縛られた長さ1m程の物体。
 持ち上げるとそれ程重くはない。
 他の荷と明らかに扱いの異なるそれの中身が気にはなったものの、他人の荷物を覗き見る趣味は持ち併せていない。
 2つの荷物を持って少女の所へ戻ると、荷物を少女の傍に置いた。
 相変わらず少女は意識のないまま熱にうなされている。
 手拭いで額の汗を拭いてやりながら、三蔵は自分が熱を出した時の事を思い出した――






『――あぁ、目が覚めましたか、江流。具合はどうです?何か食べられそうなら桃でも持って来ましょうか?あ、その前に体を拭いて・・・』
『・・・お師匠様。一つだけ聞いていただけますか?』
『ええ。一つといわず幾らでも』
『説法・・・サボんないで下さい』
『イヤです♪』

 即行で返された言葉。
 あそこまできっぱりと自分の要求を却下したことなんて、後にも先にもなかったんじゃないだろうか?

『こういう時くらい、父親らしい事をさせてくれてもいいじゃありませんか。近頃は抱っこもおんぶも肩車も強請ってくれないから寂しいんですよ?』
『・・・・・・』






 10近くにもなって抱っこもおんぶもないだろうとか、いつだって自分のいいように人を振り回しているくせに何が寂しいだとか。
 言いたい事は山ほどあったが、喉が痛いのと呆れ果てたのとで、それらが声に出ることはなかった。

「ったく、マジ勝手な人だよな・・・」

 ある日法名を授けると言われ、譲り渡されたのは最高僧の称号と天地開元経文。
 そしてそれらを継承したその日に、妖怪の手によって惨殺された。
 与えられるばかりで、何も返すことが出来ず。
 残されたのは、喪った哀しみだけ。

「・・・ク、ソッ・・・」

 3年近い歳月を経てうなされる回数は少なくなってきたものの、ふとした拍子に古傷が痛む。
 今回の場合、少女が自分を庇って毒矢を受けたのが、そのきっかけである。
 涙を流せばこの痛みも和らぐかもしれないが、それが出来る程自分はもう子供ではない。
 身の外に吐き出せない痛みは、逆に内部を侵食し続けた。
 いつか自分は、支える力を失い、倒れるのかもしれない。
 虫食いの進んだ古木のように。
 腐食の進んだ鉄骨のように。

「・・・ッ・・・・・・!?」

 ココロの痛みに、知らず口の端から洩れた呻きが、驚きの声になる。
 手拭いを握ったまま額に置かれた左手に、そっと触れる細い指。

「・・・ぅ・・・さ、ま・・・」

 熱に浮かされた声が、力の無い手が、

「母・・・様・・・・・・」

 そこにいない者を求めて、縋る。
 他人の事情に、興味などないが、
 この少女も独りなのかと、その仕草に思う。
 同情、などというつもりはさらさらないが、

「・・・・・・」

 自分より若干小さな手を、両の手で包んでやった。
 程なくして穏やかな寝息が聞こえてくると、やはり溜まった疲れのせいだろう、三蔵もまた釣られるように眠りに落ちた。
 握った手は、そのまま――








「・・・・・・・・・・・・」

 小鳥の声が覚醒を促す。
 座ったまま眠ったせいか、首や肩や腰が痛む。
 目を開いたものの、自分が何処にいるのか一瞬判らず眉を寄せるが、すぐに昨夜の事を思い出した。
 慌てて少女の容態を診ようと身を乗り出すが――

 ――いない?

 目の前に横たわっていた筈の少女の姿はなく、掛布代わりのマントは、なぜか三蔵の肩に掛けられていた。
 恐らくは少女が眠っている自分に掛けたのだろうと考えながら、それを小さく畳む。

「お早うございます」

 不意に聞こえた声に少なからず驚き、振り向けば、

「昨日は・・・ご迷惑をお掛け致しました」

 既に着替えを済ませた少女が、昨日とは打って変わって女性らしい口調で話し掛ける。

「借りを作るのは好きじゃない」

 毒矢から庇われた事を指して言ったが、

「元々は私に降り掛かった火の粉・・・貴方様は、それに巻き込まれただけですわ」
「・・・好きに解釈しろ」

 そう言って、それ以上の謝辞を遮った。
 少女の方もそのつもりはないらしく、口を閉ざすと朝食の準備に取り掛かった。
 三蔵が眠っている間に拾ってきたらしい大きな葉を皿代わりに、パンと缶詰の食事を摂る。

「どうぞ」

 カップの中に茶色い粉末を入れ、食事の間に沸かした湯を注いだものを三蔵に差し出す。
 受け取って中身を見ると、湯に溶けた粉末は真っ黒い液体へと姿を変えていた。
 香りは芳しいが、醤油のようなその色に、三蔵は戸惑いを隠せず尋ねる。

「何だこれは」
「コーヒーという飲み物ですわ・・・インスタントで申し訳ありませんが。
 苦いので好みで砂糖やミルクを入れますの。もちろんそのままでも飲めますわ」

 言いながら少女はスティックシュガーを差し出す。

「・・・・・・」

 どのくらい苦いのかなど見当もつかないが、砂糖やミルクを入れる事が何となく子供っぽいと思った三蔵は、差し出されたそれを無視し、カップに口を付けた。

「・・・――っ!?」

 まるで焦がしたほうじ茶と豆茶を更に出涸らしにしたような、味わったことのない苦味に三蔵の表情が歪む。

「・・・大丈夫です・・・?」
「・・・平気だ」

 結局最後まで砂糖もミルクも入れないまま飲み干した三蔵に少女は柔らかく微笑むと、受け取ったカップや道具を洗いに湧き水の出る場所へと歩いて行った。
 その間に荷物をまとめていた三蔵の目の前に、戻って来た少女が何かを横たえた。

「・・・それは・・・」

 三蔵にも『それ』は見覚えがあった。
 少女の荷の中でも異彩を放っていた繻子包みの荷である。

「・・・どういう事だ?」

 三蔵の問いには答えず、少女は包みを縛っている房紐を解いた。
 しゅるりという軽い音と共に中から現れたのは――胡弓。
 桃源郷各地で見られる楽器だが、決定的に違うのはネックの先端部分。
 龍の頭部を模した装飾が施されたそれは、北方の馬頭琴ならぬ龍頭琴と呼ぶべきか。
 少女はそれを取り出すと、やおら幼さの残る指で絃を押さえ、奏でだした。
 流れる調べは、聴いたことのない旋律。
 高く、低く、たゆたうメロディに、三蔵は状況を忘れて聞き入った。
 どのくらいの時間が経っただろうか、最後の一音が空気に溶けて消えるのを感じ、初めて三蔵は自分が目を閉じていた事に気付いた。
 目を開いて顔を上げると、同じく楽器から視線を上げた少女の眼差しとぶつかる。
 向かい合う紫水晶(アメジスト)鋼玉(サファイア)

「「・・・・・・・・・・・・」」

 長い沈黙を破ったのは、少女の方であった。

「・・・私の、故郷の楽器と楽曲です・・・」
「・・・そうか・・・」

 良い演奏だったと、褒めるべきだったのかもしれない。
 その言葉が出なかったのは決して三蔵の口下手のせいではなく、少女を取り巻く空気が年齢に似合わぬ哀愁を漂わせていたから。
 『故郷』に何の未練もなく旅に出た自分と違い、この少女は『故郷』に想うところがあるのだろうか。
 そんな埒もない事を考えていると、胡弓を繻子で包み直した少女が腰を上げた。

「さて、と・・・お互い先を急がねばなりませんでしたわね。お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでしたわ」

 その顔には、先程の大人びた哀しさは見当たらなかった。

「・・・確かにな」

 我ながらダサい返事だと思いつつ、三蔵もまとめておいた荷を背負う。
 そして、胡弓を背に括り付けた少女と向かい合った。
 昨日の経緯からして、少女と自分は反対の方向を目指している。
 自分は、山を越えて東方――長安へ。
 少女は、山を下り、南方へ。
 広い広い桃源郷。万に一つも再び出逢う事はないだろう。

「それでは・・・」
「・・・あぁ・・・」

 少女は頭を、三蔵は編み傘を傾げて礼をする。
 それが、最後。
 次の瞬間、幼い旅人達は己が行く道を進みだした。
 最後まで、互いの名を聞くことなく――







三蔵様、初めてコーヒーを飲むの回(笑)。
回想シーンだけで1頁半使ってしまって非常に長々しいものになってしまいました;
蛇足ですが、毒血を口で吸い出すのは、口の中の小さな傷などに毒が触れる恐れがあり大変危険です。
現代日本では、傷口を洗うか、アルコールなどがあれば消毒するだけに留め、速やかに病院へ運びましょう。







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